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宝山文学

小説小説小説だ? 小説を書かないとは何事か。日記は、文学科。

一日置いて、また私は川原を歩いた。舗装路の遊歩道に沿って

 黄色いコスモスは、細長く、一応、群生していた。

花壇として構築されたのか。その向こうの、一段下の

 丸石だらけの川原の方には、全然花は無い。

 私は、葉を一枚、切り取った。

 どれが、コスモスの葉か、わからないぐらい込み入った雑草の花壇だ。

 細長い丸みを持った葉だ。

 台所の一輪挿しに葉がさされた。

 先の花の葉は、水草のように沈んでいる。

 つる草のように伸びた茎 の先に花はある。

 葉も長旅から水を得ると、しっかりと生き返った。 

足が弱くなって歩きたくない親を車に残し、

 私はひとり川原の公園の遊歩道を散歩していった。

 そこで、見かけた黄色いコスモスを無情にも切り取って

 親に見せようと持ち帰ったのである。

親は喜んでくれた。すばらしい一輪のひまわりのようだ。

 小さいひまわり、大きいタンポポか。

しかし、コスモスの色ではないのではないかと言った。

 確か、紫が多い。

食事をし、本屋に行き、その間に放置されたコスモスは、

 座席の上で、醜く萎れてしまっていた。

大丈夫、水にいければ、なおるのだ、と親が言った。

 狭い台所のワンDKルームにおかれた一輪挿しのガラスの中に

 コスモスの茎は、葉を沈ませて収まった。

 果たして、運命やいかに。

 それがそのお、見事に、8枚の花弁は蘇り、大輪の花にも劣らぬ

 活気を見せているのである。いとおかし。

 これを、石庭の中に、移植できると親がゆうのだった。ほんまかいな。

  つづく

 。

 

サン・ジミニャーノの塔

 お役所の塔を最高として、これ以上高い塔を建てはいけない、

 としたために、では、兄弟塔を建て、合わせて世界一だろう、

 などということも起こった。

 悪魔の塔とは、雷が落ちて、亀裂が入ったために、そう呼ばれたようだ。

 最高塔を目指して旅人は街道をやってくる。ローマに通じる道だ。

 塔がおいでおいでと呼んでいる、とkOBAさんは言った。

  塔の階段を上った全員、息が切れた。涼風が吹いている。(:NHK イタリア縦断世界遺産の旅)

塔と文学。

 モンテェーニュの塔のひそみに倣ったわけではないが、安曇野の塔を建て、

  エレベーターもあるが、脚力維持のため歩いて階段を上がって意気、

 最上階で、小説を書く、丸山健二氏の作品は続々と長編が打ち出されてきた。

 冒涜の虹は、塔を建てる構想の下に書かれたか知らないが、廃棄された灯台に隠れ住んでいる。

 マタイ受難曲をテーマとした、罪と罰因果応保運pmpのガタリだ。

 東京タワーは今日も笑っていた。なつやっすみの成果、昼間からアメブロも混んでるように思えた。

 それにつけても、安土桃山時代に始まる、城郭建築は織田信長の創始かそうだろうが、

 石垣や天守閣は、西洋の城の日本ヴァージョンという印象を受ける。

 さすがに、内部で、石がむき出しなのは、入り口から地下部分ぐらいだが、

 漆喰ならぬアスベスト問題とは何かよく把握しない。

 現在、サンジェミニャーノの塔の所有者が、石の壁を室内に持ち

  夏涼しく冬暖かい室内を享受できる。石の維持費が大きい。(:NHK)崩れるのだろうか。

 残された、ヨーロッパ中世城館は、みなそうした修復ものである。ともかく石造建築とは、日本ではない。

 日本の城の石垣を保存するだけでも、その技術は、奥が、土であるためか、また独特の技術の必要に

  なって、普通の土木工事ではどうにも失敗してしまうようなのだ。
 
しょうがないから、コンクリートで固めて、石垣の模様を書けばよいというのは持論だが、

  それはどうかな。  

ロビンソンクルーソーにモデルがあったか知らないが、


 漂着の浜辺に、冒険と生活が始まる。


温暖化で沈んだ島は、半分になっていた。


とりあえず、テロもSPAMも無い。


 いらいらして殺す相手もいないので、


 牢屋に入ってきたことが損だったと思える。


 もはや、殺人協でさえも、罪を犯すことはできないのだ。


 いや、すでにここは、牢獄か。


 そんなことはないぞ、


 こんな広い牢屋があるものではない。


  自由時間だ。では、勉強するか、


 しまった、インターネットも無いのだ。

作家のテーマというか、くせというか、


 作家精神というものがあるに違いなく、


それがなければ推進できないのではないでしょうか、


何気に書いているしかないということもないではないが、


喜怒哀楽では一貫しない、


会津が負けて喪失されたという痛恨の歴史とかは大きいですね。


 さて、城山三郎とは、復興期日本の経済を書いたのか、


サラリーマン小説は、区に立ちしっみんの人がありましたね。


 惨憺たる、サントリーコマーシャルを演出したのです。


 ところで、今日はこの辺で。

東京を浮遊する、”浮遊派文学”が、2010年代に

 流行してから、2030年代に、”タワー文学”、東京

を空から見下ろすような俯瞰的発想に基づく、登場人物も多様で、

 等しく主人公であり、・・という、「タワー形式」が流行した。

 つまり、読者がタワーから見ているようなものである。

最初に、タワー文学を書いたのは、「薄明のヴィーナスたち」

 の田中正道であり、ラストシーンで、5人の女主人公が、同じ電車で、

地下鉄の闇に消えていく夕暮れの東京駅が描かれる。その5人はお互いを知らないが、

 何の因果か同じ車両に存在するひと時があった。すなわち、逆算すれば、

 彼女らは、某日某時同じ東京の空の下で働いていただけのことである、

それをことさらに、ラストシーンで集めたところに、タワー文学は

 発生したのであった。

生活改善は、転居によってもたらされる。

 昔の作家は引越しが多い。

今の作家も自在に引っ越せるのだろう。

 金の問題だ。

金がなければ、現在地を下に出して、

 建てるしかないが、建てチンがかかる。

生活を改善したいのですが、

 と言うと、

家を貸しっこしよう、

 と言ってくれた。

私が山の中に行き、

 あっちが街に出てくるのだ。

荷物の入れ替えだけだ。

 まあ、考えて見ます。

もうひとつは、とりあえず、

 会社の中に暮らすことだ。

 会社がつぶれている。

世間体として、古本屋を始める。

 あとは、影武者として、学習塾教師を立てることだ。

それが、古本屋の裏口になってくる。

 田中正道は、各館が得た。

しまわなかった車に乗って、和食レストランに行った。

 深夜営業している。朝まで営業して、一時間閉めて

 朝のスタートをするらしい。23時間営業なのだ。

駐車場の玄関前に止めて降りると、飲み物の紙コップの大きいものが捨てられていた。

 こまめに掃除指定いただ期待。彼は、二つのドアをくぐり入っていくと、

たぼこはすわれますか、とボーイさんが言った。まあ、そんなこんなでね、

 食い終わってから彼は、そっくりかえって、斜めになりながら、

果てしない瞑想に落ちている。

 どうにもならないのである。

膠着はそのまま、着座の果てしない瞑想になっている。

 少年時代は、無念だ。執念時代も、悲惨だ。

どうにまだ解されない現況がある。

 このとき彼に、転機が訪れた。

要するに、アイディアが出ないのだ、

 アイディアということで、ここの悟りと使用、

彼は立ち上がりレジへ向かうのであった。

生活を変えていと思っているが帰られないという

 どこへも帰られないという事情があるだろう。

そのような個人が、どのように、ずるずると惨めに

 行きまた、どおんと、取り組みを出していくかという、

 痛快なストーリーが、書けたら面白いと思うのである。

まず、現実のぼくなりとは、どうにも変えれないでいるわけでしょうが、

 どうしても変えたい、いや、代えなくては成らないと、

いう、必死さが、あれば何とかなるのでもない。

 なんともなれないところでどう、気持ち、救われるか、

 そっちのほうに、しみじみほのぼの、野穂の穂とした味わいを追求するほかない、

これで以降ではないか。

夏目漱石、慶応3年、戊辰戦争前夜に生まれた。

 埋められて3ヶ月高で用紙に出され、兄が4人いたからか。

また、生家に戻ってから、用紙に出され、また帰ったのかな。

 腕白坊主として、穴八幡でも遊んでいたかもしれない。

生家というのが、夏目坂を降りて、馬場下の通りを右か左か平気、

 4件目ぐらいらしい。

そのへんに、石碑があった用でもない。

 馬場下に、松本良順が病院兼学校を建て、のち陸軍軍医総監に
 招聘されてからは、屋敷のみになったのかわからないが、順天堂もあることだし、

 奥のほうに早稲田大学が開かれる元になったとも言われるのだが。

 早稲田とは、その奥のほうの町名であって、こっちは、後に西早稲田とも
 されたのだ。もとは、広く牛込馬場下でよいのか。

 喜久井町とは、夏目金之助の父が、菊井の紋所から命名したとすると、

  それ以前は、なんだろう。江戸地図です。

 馬場はどこにあったのか、流鏑馬の地だ。

 夏目というのも、やはり、棗の木(ナツメ)と関係あるのか、
 屋敷には、ナツメが5,6本あったという。

 神楽坂から高田馬場まで、夏目家が名主を受け持ち、これは、広範な

  担当でありますね。

 ここで、馬場が出ました。あっちから、ずーっと坂を下ってくるが、

 起伏は、明治になって緩やかに直されたという。ひょっとして、

 良順の力もあったのだろうか。

 ナツメ漱石から、野口英世に切り替わり、ナツメ千円がもう手に入らなくなったのだろうか、

 にわかに、ナツメ漱石が、貴重になってきた。