宝山文学 -6ページ目

宝山文学

小説小説小説だ? 小説を書かないとは何事か。日記は、文学科。

都会の一人暮らしは、出歩くことに楽しみがあるが、

 学生・お仕事計では、家は寝るだけだ。

家に籠っている作家のような人は、

 あるいは、似非(えせ)作家の場合も、

どんな感じか。

 周囲の家に取り囲まれた一軒の平屋の中で、

家の中に敵はいないが、周囲の敵に対応して生きていく。

 家の中の敵は、仕事を邪魔して、協力するものではない。

家の外は、道路で子供が騒ぎ、侵入することもある。

 生活の交渉が、聴こえてくる。車の音。

最悪は、あてこするようなピアノの音だった。

 時に不要な宗教団体やや町内会会費がドアを叩く。

新聞集金は振込みにできる。しかし新聞は取らない。

ポストが不備だ。

 回覧板とは何事だ。

 周囲に耳を光らせている。

 横暴な町工場、その運送の出入りやらが、こっっちの

  セダンの出入りを妨害しがちだ。

 子供らは、電柱からっ張り出し屋根に移って、

 母屋の屋根にも上がり、足踏みして音を立てた。

 塀に軟球をぶつける。家の壁にもぶつける。

 周囲との戦いの中に作家の営みがあった。

 マスキングは、ラジオの音を台所で、出していることだ。

 これで、落ち着いて昼寝できる。

 朝寝もできる。

 深夜と夜は必要ない。

 寝室の床の間にTVを付け、あるいは、
 
 オーディオを掛けて寝る。

食事は、家では簡単でよい。

自転車は、最高だ、どこまでもいける。

 単車も良いだろうが、保管は、車庫が必要だ。

 また、混雑する都会では、走りが悪く、危険もあるが、

排気を吸ってしまう。

 それは、自転車でも同じわけだが、

 自転車は、車の後ろには居ないとか、で、

 やはり、いいのだ。

 さっぱりと、電気自動車の時代が来るべきだ。   

 電気自動車の時代になれば、人々は、

 もっとまともな人間になって、子供も

 悪さをしない時代が来るか、

 公園や、ゆとりある暮らしは、もたらされるのではないか、

 意図人が立ち上がればの家庭だ。

 周りの犬が、作家を吠えている。

東京タワーの改装が終わった、東京タワーの七夕に、
  短冊を吊るすのが楽しみだ、

  とのお便りを今回いただきました。

東京タワー年中行事があるのだろうと、初めて考えました。

 東京タワー50年始も計画されていることでしょう。 

恒例初日の出が、特に・・大満員になっちゃいますか、

 となると抽選でしょうな。
 
東京タワー同好会から東京タワー秘密結社まで、

 いろいろファンクラブ、事業クラブがあるに違いない。

にわか東京タワー友の会の者です。

 東京タワーとは、電波塔に違いなく、その中に、

 あるのは、東京TVなどであろうか、NHKはどうなるの?

 と、なのもわかってないぼく出す。

 よく電波塔は、パラボラアンテナ『丸いやつ)が付いている。

高圧送電鉄塔とは別だ。

 東京タワーのように高くなると、単純に直線的なやぐらでは、

 そのような 橋脚?では、力学的に対応できない。上部の

 重量を支えるには、あのようなしなりが必要だろう。

 それが独特の曲線の美ともなっている。

 と、思ったが、それほど間違ってはいないだろう。

ともかく、東京文化人(福沢諭吉?)と、東京タワーは押さえておこう。 

 

東京タワーを検索すると、デジカメ撮影や、

 ファンが多いことが見えるようだった。

高さが333mとわかった。わかりやすい数値に

 決められたものだろうか、そのほか、東京タワーの薀蓄から

広がる世界が期待できそうだ。塔一般、電波、高層ビル、

  遊覧、雷雨、航空の目標、ざっと、思いつくところだが、

ほかの人は何を見てるか、東京タワーの魅力に迫れる。

 エッフェル塔以外は、どこにあるのだろうか、東京タワーしか、

 日本しか知らないでいる。

 東京タワーは赤い色に塗装されてるが、これは一度変わったのではなかったか、

そうそう、昭和33年にできたのだ。1958年。47歳かな。

 あそっか、寿命もあるよなあ。建替えが600m計画なのかな。
ピサの斜塔 エッフェル塔 鉄骨 石物 素材と構造

ミニチュアが、喚起するイメージ・空想は出てくる。

 きょう、回転寿司屋のレジで、子供のためのプレゼントをもらった。

それは、二人乗りオープンカーながら、リヤスポイラーが高く付いている。

 ぼくはオープンカーは持ったことないので、想像を掻き立てられる。

 まず、前輪が良く回るように調整して、押してみると良く走るようになった。

 赤いオープンカーで、裏磐梯をゆっくりと走っていて道を譲ってくれた。

 振り返り見ると外国人の老夫婦であった。

 思い出が、蘇る。

 模型の細部を見ると、造りが、改めて、認識される。

 椅子の素材、ハンドルの存在、など、そして、フロントガラスは、

 青かった。それはちょっとないよね。いや、あるのかもしれない。

ものを通して考えるということは、実物とは限らないのだ。

 むしろ、模型と言う小さいものによって、考える視点が立ち現れる。

 あまり大きいと、見えない部分もあるわけだ。模型は、ひっくり返したり

 扱いやすさが、発想の展開につながることもあろう。

 子供のおもちゃも、おとなが関係してはいるし、高度な、

 ミニチュアの趣味もある。認識論だ。

 ぼくは、遊んではいないが、しかし、単車の模型がほしいとは思わないし、

 単車のリモコンを操縦したくもない。飾りの東京タワーはぼくもほしいのだが。

 ぼくは、何が必要か。コイン、金貨のチョコレートはおもしろかった、

 それは単に、子供時代だ。コイン収集は、あまりきれいでなかった。

 むしろ、チョコレートを包んだ、金紙のコインはぴかぴかだった。

 多くの、おもちゃを失った。替わるべき世界は、見出せてはいないだろう。

デジカメはあれども、やりかたはわからない、ホームページは、愚にも付かない内容で、


 goodでも具でもないので、世の中の資とならないです。しかし、発表会はおもしろいので


 blogもおもしろい。


挿絵や、写真入で、新時代の物書きは表現力とスペードが出たといえる。


 ウェッブは、学術的にもデータベースとなっている。といったことは、ゆうまでもなかった。


桜も、家の玄関前のタンポポも終わった。むろん、花が。ウェッブデザインにも


 四季がある。四季の移ろいは、日本の文学のお要素だった。(偶然 お が付いた)


 

東京という所で、仕事もなく、学生でもなく、ふらふらと

 歩いていても、ひとりでは、激しく飲み込まれるままに、

溶かしの喧騒に飲み込まれるままに、証文刷るだろう。

 なに、消耗するものだ。

そんなあなたに、ひとつの低降雨の方法がある。
 抵抗。

 東京タワーだ、その高見から、東京を見下ろし、はるかに

 遠謀が望める。


 やってみなくてはわからない、写真家の人が、アメ風呂に入って

 東京タワーを教えてくれたのだ。

 東京タワーか、確か小学のとき田舎から父に連れられ、
  一度上ったはずだが、その後、ワッセダ中学の受験に失敗し
 区立中学にもぐりこんだのが、人生の失敗になった。

  東京タワーにもどこにも出かけず、ひたすら円が国は現dふぁ者である。

 東京タワーか、救いがあるかもしれない視点だ。こころえた。

ヒョウ混じりの雨の後で、雷雨が来てやむと、
 もはや、薄暗く夕刻の麦秋が来た。

 麦秋とは、今頃の季節らしい。
 まだ辞書を引いてない。

知らない言葉を使って、間違ったら作家としては失態だ。
 関東の都会にも所によっては、水田が広がり、雨上がり
 梅雨の合間に輝く緑が映えたりする。

風景描写も苦手だ、普段の観察が足りない。

 作家が稀有な情報を提供できれば、読者に受けると、
そのような文学が、小説の売りと考えることもできる。
 そのことは、村上粒子が口にしたのだ。

 それは、麻薬とか、裏家業とかそんなものである必要も
  ないし、あって容易なものではない。

状違法なえら、情報は、その作家のいわゆる感性とか、
  
 文学性そのものが、どう捕らえうる蚊でかであるとも

 ぶ~ん。 
 ともかく、3階は書いたと、遊んでいてもだめでしょう。

朝冷え と言う言葉があるかどうか、ともかく、未明には冷え込んだが、


 どーんと晴れてきたので、日中は暑くなるはずである。


 己のふがいない状況とか、ゆうにいえない境遇なども、文学してしまうのでなければ


 作家たる資質が無いとも言える。


 あるいは、逃避と言う。逃避なら、逃避で、わかりやすい夢物語でも、


 混沌とした、ファンタジーでも紡ぎだすが要だろう。良いだろう。


 生活の一部を、ふくらませて、確固とした生活を描き出せるダリ王。だろう。


 所詮、小説は虚構、うそである、ただ、


  このジャンルのトップに書いてある、心を打つ名作を武ロッ具で。ブログデ。


 心は、実際を超越して、何かを、創造しえるであろうか、心あるならば。


 心が無いから、心を磨かねばならないとも言える。


 心は文学の文学論であったのだ。そこは本稿の予測の範囲外だったの話だ。

日記文学 は、日本の伝統、お家芸じゃないか、


 ブログの書き手は、どんといけー という、山川氏の


 文章が載っている。山川塾  が目に付いた、雨風呂ブログ入会が、


  本・書評・文学 部門だったからだろう。特に、作家を目指せ、の、


 キャッチフレーズもトップページに見られた。


   そうそう、やはり、作家と、いう、ブログ活用方法が、

決して、伊達や酔狂ではないよね。


 思い出すのは、読んではないけど、女流作家が出たよね。


 (:随分前の事件”だ)


 ちょっと立ち読み、ベンキョウが一般的に足りないぼくである。


  小説。書くと思ってもちょっと無理なぼくだろう、しかし、


 徘徊してみたいと思うのだった。


ひとつには、私小説のように、日記文学の書き手wとしては、


 (偶然wが入った)生活がなっていないという苦渋の立場だと思うし、


 かといって壮大なフィクションを構築する知識も才能も偏執・妄想もない。


 だから、宝を、小説を組みあげることが難しいと考えている。


 随分正直に語ったが、かといって、小説が、どうしてもだめな分野だとは、


  せずに、さっきも書いたが、せいぜい徘徊しもがいても良いだろう。


 創作の周辺です。