原水爆禁止2011年世界大会-長崎⑤
8月9日。長崎に原爆が落とされたこの日、3日間にわたって長崎で開かれた原水爆禁止2011年世界大会は、長崎市民体育館にて閉会総会を行いました。
被爆者からの発言、海外・国内代表などから発言や訴えが行われ、原爆が落とされた11時02分には1分間の黙祷を捧げました。ここでは、その一部を紹介します(発言については、内容が変わらない範囲でまとめたり省略したりしています)。
なお、今回の記事、文書がかなり長いですので、ご覧になる方はあらかじめご了承ください。m(_ _ )m
まずは、被爆者としての経験と、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)での行動について発言された、日本被団協事務局次長、木戸季市さんの発言を紹介します。
5歳のとき、爆心地から約2km。稲佐橋のすぐ近く、旭町の路上で被爆しました。
飛行機の爆音を聞き、見上げた瞬間、ピカッと光り、ドーンと爆風を受け、20mほど飛ばされて気を失いました。
私は顔の半分を被爆しました。
同じ場所にいた母は、顔全部と胸を焼かれました。私を抱いて、母は稲佐岳の防空壕に逃げました。
防空壕に着いたとき、母はほっとしたのか、横になると動けなくなりました。
私たち家族は、翌8月10日、浦上川の右岸沿いの道路に沿って爆心近くを通って道ノ尾に疎開しました。
同じ日、左岸の県道を通って山端庸介さんが写真を撮っています。
私が見た長崎がそこに写されていますが、死者の数、助けを求める人の数は、あの写真のように少なくはなかったと記憶しています。
あの日から66年が過ぎました。今日まで、人生の節目節目で被爆者であることを意識させられました。
高校から大学へ、結婚、そして子供が生まれるとき、娘の結婚などなどです。
結婚、出産など、人生の喜び・お祝いのとき、ほとんどの被爆者は苦しみ、不安にさらされました。
被爆者は、被爆者として生きるしかないのです。核兵器は人類と共存できない悪魔の兵器です。
被爆から12年、もっとも被爆者が援護を必要としたとき、日本政府は何の手立てもしませんでした。被爆者を見捨て、遺棄しました。
この間に亡くなった死者に対して、政府は未だに何の償いもしていません。
原爆被害に対する国としての償いを拒否し、そればかりか戦争被害として受任すること、我慢することを強いています。
1956年8月10日、沈黙を破って日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)は結成されました。
それから55年、日本被団協は再び被爆者を作らないために核兵器の廃絶と原爆被害に対する国家補償を求め続けてきました。
そして今年、改めて「現行法改正要求、原爆被害者は国に償いを求めます」を決定し、力を振り絞って運動していく決意を固めました。
皆様のお力添えを強くお願い致します。
日本被団協が結成され、原水爆禁止運動が国民的世論となって運動が高まったちょうどその頃、原子力発電推進の政策が始まりました。
原子力の平和利用が大々的に宣伝され、多くの国民が期待を寄せましたが、それは人類の幸福に寄与するものではなく、利潤と利権を求めるものです。
原子力研究・利用に当たって提唱された自主・民主・公開の3原則は顧みられず、安全性を無視した原子力発電所の設置・稼働が進められました。
その結果が東京電力福島第一原子力発電所の事故です。
私たち被爆者は、「被爆者が作られた!」と震え上がりました。
私たちと同じ苦しみを味会わせられる多くの人々が作られたのです。
日本被団協は、政府、東京電力に「被災証明を出しなさい。」「健康手帳を出しなさい。そして、健康管理を徹底しなさい。」という要請書を出しました。
また、総会では、原発を計画的に廃炉にするよう求める決定を致しました。
福島の被爆者の皆さんを思うとき、私は心が乱れます。
私たちの願い、国家補償を実現させていたら、こういう事故を阻止できたのではないかという申し訳ない気持ちでいっぱいです。
これ以上被爆しないように、万全の措置をとってもらいたい。
私自身は、下痢、脱毛、歯茎からの出血、40度以上の高熱という初期症状を起こしました。1,000ミリシーボルトぐらいの高い放射線を浴びたのだと思います。それでも66年生きて参りました。
これ以上被爆しないよう細心の注意を払うと同時に、核被害に人間は負けないぞという気持ちで皆さんと手を取り合い、支え合い、励まし合っていきたいと思います。
全ての人が、特に未来ある子供たちが安心して生きていける安全な世界、核兵器も戦争もない、原子力発電所もない社会の実現を目指し、ともに頑張りましょう。
ノーモアヒロシマ・ナガサキ・フクシマ、ノーモアヒバクシャ。
青森、岩手、宮城、福島、茨城の被災5県代表が一斉に登壇し、それぞれの思いが訴えられました。代表して、福島県代表団の青年2人の発言を紹介します。
核兵器も原発もいりません!
3月11日、大震災と大津波で東京電力福島第一原子力発電所が停止した。
冷却装置も動かなくなった。翌日から水素爆発が続いた。
1号機、3号機、2号機、4号機。そして、そのときおそらく広島原爆の何倍もの放射性物質が、福島県内を中心に、広く日本中に飛び散った。
放射性物質を大量に含んだ汚水も海へ放たれた。
それ以来、福島の大地・海・空は、目に見えない放射線によってけがされ、人々は津波の犠牲者を弔うこともできないままふるさとを後にせざるを得なかった。
飼い主のいなくなった牛たちはやせ細り、えさを求めて翻弄した。
避難生活は地獄。二次、三次と避難先を替えたが、ふるさとに戻る見通しはない。
空の青さ、海の青さ、緑の自然は以前と変わらないのに、駆け回る子供たちの姿も田や畑で働く人の影もない。
つきることのない不安が、人々たちをとらえ続けています。
今、私たちは声を上げる。「核兵器も原発もいらない!」と。
「原発の安全神話を振りまき、利益優先で進めてきた東電と政府に対して、一刻も早く事故を終結せよ!」
「全ての被災者に保証と賠償を行え!」と。
そして、原発に依存する国のエネルギー政策を改め、自然再生エネルギーへの転換を強く求める。
世界の国々に訴える。ノーモアヒロシマ、ノーモアナガサキ、ノーモアフクシマ。
また、アメリカ、ロシア、タヒチ、国際平和ビューロー、フィリピンの海外代表が発言しました。ここでは、アメリカのハンフォード風下住民、トム・ベイリーさんの発言を紹介します。
私の国の政府は、ワシントン州ハンフォードにある先祖の土地を取り上げて、そこに巨大な核兵器工場を建て、原爆を製造し、長崎へ投下しました。
政府は、私たちに「君たちは安全だ。」と言い続けました。
1984年、私は公開の場で政府に対し、家族や隣人の間でがんや先天性奇形が増えていることを問いただし、この現象は、やがてハンフォード風下の死の1マイルとして知られるようになりました。
政府は、それまで極秘扱いだった文書を公開しました。文書が明らかにしたのは、核兵器工場ががんや奇形を発生させることを政府ははじめから知っていたという事実でした。
政府は、工場周辺住民をハンフォード風下住民と呼び、有用性の低い国民と述べていました。
文書を読むうちに、長年胸にしまっていた子供の頃の記憶がよみがえりました。
祖父母の家にいたとき、どうしても足が動かなくなってしまったのです。
祖父は、私をセントメアリー病院に連れて行きました。夜勤の医師が、毎晩様子を見に来ました。
彼らはドイツ語を話していたので、私には何を言っているのか分かりませんでした。
私は呼吸ができなくなり、苦しんでいました。
夜勤医たちが来て、看護婦たちや銃を持った兵士を怒鳴り散らしていました。
私は人工呼吸器がつけられ、窓が1つしかない小部屋に移されました。
それは、死の部屋でした。体の麻痺で全ての運動能力は奪われ、頭はもうろうとして口から垂れたよだれが枕に流れていました。
窓のブラインドを通して、空にはキラキラと降りてくる白い粉雪が見えました。
すると、明るいブルーの光が窓から差し込み、痛みや感覚が全くない、暖かい愛情のトンネルのように私を飲み込んだのでした。
私はそのトンネルに入りましたが、3人の人の形をした影が両手を突き出して、私の行く手を遮り、押し戻したのです。
私は、病棟からリハビリに移り、小学1年生になるまで、二度と夜勤医たちに会うことはありませんでした。
ある日、彼らは政府のトラックでハンフォードから私の学校にやってきて、私達全員を一列に並ばせ、首のあたりを触診してミルクの瓶に尿を採取しました。
それから、私達にチョークのような味の白いミルクセーキを飲ませ、トレーラーの大きな機械の下に私達を横たわらせました。
全身の放射線量を量る測定器でした。
これら全てのことは、一体何を意味するのでしょうか。
私の国の政府は、被害を起こしたことなど知らないふりをして、訴訟を起こした被害者たちが高齢やがんで全員死亡するまで裁判を引き延ばそうとしています。
多くの風下住民と弁護士たちも、実際に高齢やがんで亡くなっています。
私の希望は、ハンフォードや福島のような事態を引き起こした人間に、個人としてその責任をとらせることです。
このほか、大会では日本青年団協議会から連帯あいさつ。
ノルウェー外務大臣から届いたビデオメッセージの紹介。
「米軍基地の撤去を求める運動」について神奈川県代表と沖縄県代表が発言。
「原発とエネルギー問題」について愛媛大学伊方原発を考える会が発言。
「核兵器全面禁止にむけた地域・職場ぐるみの取り組み」について熊本原水協、全教青年部(大阪、京都)、静岡民医連が発言。
大変残念なことに、ノロウイルス感染で閉会総会に参加できなくなった北海道代表団の訴えを代読。
アラブ連盟軍縮戦略問題特別顧問からも発言が行われました。
また、閉会総会では、歌手のクミコさんが、原爆症でなくなった佐々木禎子さんを歌った歌「INORI~祈り~」を熱唱。6万羽の折り鶴を集めて広島に届けたことが語られました。
更に、「21万羽折り鶴プロジェクト」に取り組む青年たちが、28万羽の折り鶴を集めたことを報告し、会場から大きな拍手が送られました。
大会の最後は、末尾に掲載している「長崎からの呼びかけ」が提案され、会場からの大きな拍手で採択。
日本原水協事務局長は、閉会あいさつと行動提起をする中で、国連軍縮問題担当上級代表 セルジオ・ドゥアルテさんが、10月の国連行動について、「皆さんの署名を国連にいくらでも展示しましょう。」と約束されたことを紹介しました。
そして、大会終了には恒例となった「ウィ・シャル・オーバーカム」の大合唱。続いて「折り鶴」が歌われる中、海外代表団が退場していきました。
最近の原水爆禁止世界大会は、青年の参加者が非常に多く、とても熱く、元気あふれる大会となっています。
僕が毎年参加するのも、この運動が大切だからっていうだけじゃなく、参加して元気になれる、感動をもらえる、楽しいっていう思いがあるからなんです。
もう、趣味の世界になってますね(笑)
僕は、ほとんど個人として参加しているようなものですから、どこかで報告するような機会がありません。
だから、このブログで報告記事を書かせていただきました。
一人でも多くの皆さんにご覧いただいて、「核兵器はいらない」「原発は改める必要がある」などと考えていただければ幸いです。
長い長い記事、ここまでご覧くださった方がいらっしゃいましたら、感謝感謝です。
それでは、大会最後に採択された「長崎からの呼びかけ」を掲載します。
原水爆禁止2011年世界大会-長崎決議
長崎からのよびかけ
66年前の8月9日、アメリカは、ここ長崎に、一発のプルトニウム原爆を投下しました。核分裂の連鎖反応がもたらした放射線、熱線、爆風は、この街と人びとを容赦なく襲い、破壊のかぎりをつくしました。原爆はいまもなお、被爆者の生命を脅かし、絶えることのない苦しみを与えています。
核兵器と人類とは決して共存できません。-これこそが、「ふたたび被爆者をつくるな」「長崎を最後の被爆地に」の声をあげ、被爆者とともに歩んできた原水爆禁止運動の揺らぐことのない原点です。
今年3月、東日本大震災と東電福島第一原発事故は、壊滅的な破壊と深刻な放射能汚染をもたらしました。被災地支援と復興のための活動や放射線から人びとの安全をまもる活動がとりくまれ、国民のあいだに助け合いと新しい連帯の輪がひろがっています。「原発安全神話」で国民を欺いてきた政府や東電など電力業界への怒りが噴出し、原発からの撤退と自然エネルギーへの転換を求める声がわき起こっています。
いまこそ広島・長崎の被爆の実相と核兵器の非人道性、放射線被害の実態を広範な人びとのあいだに語りひろげ、連帯の輪を力に、核兵器廃絶の世論と運動を大きく発展させるときです。
私たちは、「原水爆禁止2011年世界大会国際会議宣言」の提起にこたえ、被爆国・日本の運動を飛躍的に前進させることを決意し、つぎの行動をよびかけます。
核兵器禁止条約のすみやかな交渉開始を求める世界の行動の先頭に立ち、被爆国の運動にふさわしい役割を果たしましょう。
国連事務総長や1200人近くの自治体首長・議長はじめ国内外の広範な賛同を得てひろがる「核兵器全面禁止のアピール」署名の運動を、地域ぐるみのとりくみで、大きく発展させましょう。秋の国連総会や2012年からはじまる次期NPT再検討プロセスを節目に、署名運動の巨大な波を職場、地域、学園からつくり出しましょう。
日本政府が、米国の「核の傘」に依存しつづけることを許さず、国連総会で核兵器禁止条約の交渉開始を提案するなど、被爆国にふさわしい役割を果たすよう、強くせまりましょう。
「核密約」の破棄と「非核三原則」の厳守により、「核の傘」からの離脱と日本の非核化を実現させましょう。沖縄・普天間基地をはじめ在日米軍基地撤去と原子力空母の母港化撤回などを求めましょう。憲法9条を守り活かす運動をさらに強めましょう。
原爆展をはじめ多彩な行動で、広島・長崎の被爆の実相をひろげましょう。原爆被害の過小評価を許さず、被爆者施策の抜本的強化と国家補償を求めましょう。世界の核実験被害者、チェルノブイリや福島第一原発事故の被災者などへの支援と連帯を強めましょう。
核兵器と原発との関係や放射線被害の実態について学び、放射線によって苦しむ人びとをこれ以上生みださないとの願いをひとつにしましょう。原発からの撤退と自然エネルギーへの転換を求め、国民的な共同と連帯を発展させましょう。
私たちは、被爆者の体験とたたかいの継承を「人類的な事業」としてとりくむことをよびかけます。「核兵器のない世界」の扉を開くため、いまこそ行動に立ち上がりましょう。
被爆者とともに、そして未来を担う若い世代とともに-
2011年8月9日
原水爆禁止2011年世界大会-長崎
原水爆禁止2011年世界大会-長崎④
8月8日に行われた「動く分科会・佐世保基地調査行動」の続きです。
前回の記事で、佐世保港の83%が米軍への提供水域になっていることを書きましたが、陸上においては、佐世保市の市街化区域のうち約20%が米軍、海上自衛隊、陸上自衛隊の基地で占められています。
町中を走っていると、そこかしこに警告看板を見ることができます。
上の写真は、強襲揚陸艦エセックスを自動車道路から眺めたところですが、手前にある緑の屋根の建物は、全て米軍施設です。
米軍基地のゲートです。業者が基地内の公衆電話を修理するために入場する場合も、パスポートが必要となります。しかも、「国籍を証明する文書を持ってこい。」と言われたそうです。
更に、車で入るときは「入る2日前までに車のチェックを受けてほしい。」と言われ、爆弾や不審物が積まれていないかをチェックされたそうです。
また、ゲート出口には、進入しようとする車のタイヤをパンクさせるための「剣歯」が、黄色いラインの近くに設置されています。(写真の赤い矢印のところ)
佐世保ドライドック(第3ドック)。ドライドックのうち、第2ドックは米軍への提供施設で、揚陸艦や掃海艇の修理が行われています。
写真の第3ドックは1968年に米軍から返還され、佐世保重工業(SSK)が使用していますが、日米地位協定により米軍が共同使用できる施設とされています。
返還される時点で、「米軍が7日前に通知すれば、第3ドックを優先的に無償で使用できる」という屈辱的な「返還使用協定」が締結させられています。
米軍針尾住宅地区は、長崎県が取得していた針尾工業団地の一部に造られたものです。
今日までに「思いやり予算」で532戸(9階建て高層住宅4棟(272戸)、6階建て高層住宅1棟(44戸)、2階建て低層住宅35棟(216戸))が建設されています。
間取りは1戸あたり平均40坪。費用は1戸あたり約4,500万円。
基地の中には教会や売店、理髪店、診療所、学校、保育園など、あらゆる施設が整備されています。
米軍住宅は市内各所に造られており、右の写真は針尾住宅地区とは別の高層住宅です。
このような施設に「思いやり予算」を湯水のごとく注ぎ込む日本政府。そんなことをするお金があるなら、国民の災害対策などに回すべき、とりわけ今は、東日本大震災で打撃を受けた地域の復旧に回すべきだと、僕は憤りを感じます!
ところで・・・米軍基地の入口に作られた鳥居(上の写真)。看板のつもりでしょうが、何でしょうねぇ。
僕は宗教に興味がないので怒りはしませんが、もともと「鳥居」とは「神域への入口を示す一種の門」であるはず。
その「鳥居」を米軍基地の入口に配置するというのは、すごく違和感を感じますね。
それとも、米軍は自らを「神」だと、「米軍基地は『神域』だから日本人は入るな!」とでも言いたいんでしょうかねぇ。(-。-;)
米軍将校住宅です。西九州自動車道を延伸し、米軍ゲート近くにインターチェンジを造ったことで、取り壊された米軍住宅の代替施設として作られたものです。
高さ14m、長さ250mのコンクリート擁壁の上には、わずか11個の住宅しかありません。その総経費は、28億円もの道路特定財源が使われているのです。
原因は米軍の要求。その対策は日本がやると。米軍は、身勝手にもほどがあります!
米軍針尾住宅地区の東ゲート脇には、引揚者の遺骨・遺体を荼毘に付して弔われている釜墓地があります。約2,000人もの引揚者が、ここで荼毘に付されているそうです。
また、浦頭引揚資料館には、当時の衣服や日記、紙幣、通帳などが展示されています。
佐世保市針尾北町の浦頭港は、日本人の引揚港として約130人を迎え入れ、307柱の遺骨と4,515柱の遺体も引き揚げられたそうです。
米軍基地と言えば、沖縄のひどさが常に取り上げられていますが、この「佐世保基地行動」に参加して、僕は佐世保市もひどいものだと感じました。
米軍基地は日本にいらない!そして、神戸にこのような施設を造らせないためにも、非核「神戸方式」を守り、むしろ条例化する必要があると感じました。
コメントを承認後の公開に変更します
大会報告記事の途中ではありますが、お知らせでございます。
最近、友人のブログに迷惑コメントが届くとの連絡を受けました。
僕のブログでは、現在までそのような被害を受けておりませんが、念のため、コメントを「承認後の公開」に変更致します。
なお、僕はコメントや読者申請を受けた場合の「メール通知」を設定しておりませんので、コメントや読者申請を頂戴してから承認するまでに時間を要すると思いますが、どうぞご容赦ください。
また、「ペタ」につきましては、以前の記事で記載しておりますとおり、いかがわしい店舗のブログや広告(?)ブログの管理者から受けることがあるため、引き続き取り外しておりますのでご了承ください。
それでは、今後ともよろしくお願い致します。

