エゼキエル18章19~24節、詩篇25篇1~9節、マルコ11章27~33節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エゼキエル 18:19 それなのにお前たちは、『なぜ、子は父の罪を負わないのか』と言う。しかし、その子は正義と恵みの業を行い、わたしの掟をことごとく守り、行ったのだから、必ず生きる。
 18:20 罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである。
 18:21 悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。
 18:22 彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。
 18:23 わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。
 18:24 しかし、正しい人でも、その正しさから離れて不正を行い、悪人がするようなすべての忌まわしい事を行うなら、彼は生きることができようか。彼の行ったすべての正義は思い起こされることなく、彼の背信の行為と犯した過ちのゆえに彼は死ぬ。

詩篇 25:1  ダビデの詩。 主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み
 25:2 わたしの神よ、あなたに依り頼みます。どうか、わたしが恥を受けることのないように 敵が誇ることのないようにしてください。
 25:3 あなたに望みをおく者はだれも 決して恥を受けることはありません。いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです。
 25:4 主よ、あなたの道をわたしに示し あなたに従う道を教えてください。
 25:5 あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。
 25:6 主よ思い起こしてください あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。
 25:7 わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず 慈しみ深く、御恵みのために 主よ、わたしを御心に留めてください。
 25:8 主は恵み深く正しくいまし 罪人に道を示してくださいます。
 25:9 裁きをして貧しい人を導き 主の道を貧しい人に教えてくださいます。

マルコ 11:27 一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、
 11:28 言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」
 11:29 イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。
 11:30 ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」
 11:31 彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。
 11:32 しかし、『人からのものだ』と言えば……。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。
 11:33 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

 

 

父親が犯した罪のために、その子供が償いをしなければならないなどということは、本来ありえないことであるし、仮にあったとしても、何ら意味をなさないことであろう。

仏教などでは、亡くなった人が成仏するために供養するといったことが行われるようであるが、これも不思議な話である。

成仏、すなわち、仏のような状態になるためには、本来、本人が修行を積む必要があるはずなのに、足りないところを子供らが代わりに補うのだ。

仮にそれが可能だとして、果たして残された子供らのなす業によって、親などの供養を完璧に果たすことができるのだろうか。

できないからこそ、何回も何回も供養の機会が提供され、下手をすると永遠にこれを続けなければならないのではないだろうか。

何度も何度も供養の機会が必要であるということは、それ自体になんの力も意味もないことを示しているようなものに思える。

果たしてそのような世界に、どんな平安があるのだろう。

一方、聖書における救いの約束は、この世界を創られた神ご自身の命が贖いの犠牲としてささげられたと教えている。

イエス様の十字架により、一度で完全な償いの業が成し遂げられているから、もう何も供養のようなことをする必要はない。

一度で完璧なのだから、これほど安心していられる約束はないだろう。

何度も何度も死者を供養するようなことをしなくてもいいというところにキリスト教の良さがある、と私は思う。

死者を記念する会を催すのは良いけれど、意味をはき違えないようにしたいし、本来しなくてもいいことなのだということを知っていれば、十分なことができなくても安心していられる。

救われた人は、完全なる状態で、すでに神の国にいる。

感謝なことである。