聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

レビ記 9:1 八日目に、モーセはアロンとその子ら、およびイスラエルの長老たちを呼び集め、
 9:2 アロンに言った。無傷の若い雄牛を贖罪の献げ物として、また同じく無傷の雄羊を焼き尽くす献げ物として、主の御前に引いて来なさい。
 9:3 またイスラエルの人々にこう告げなさい。雄山羊を贖罪の献げ物として、無傷で一歳の雄の子牛と小羊を焼き尽くす献げ物として、
 9:4 また雄牛と雄羊を和解の献げ物として主の御前にささげ、更にオリーブ油を混ぜた穀物の献げ物をささげなさい。今日、主はあなたたちに顕現される。
 9:5 彼らがモーセに命じられたとおりの献げ物を臨在の幕屋の前に持って来ると、共同体全体は進み出て、主の御前に立った。
 9:6 モーセは言った。これは主があなたたちに命じられたことであり、主の栄光があなたたちに現れるためなのである。
 9:7 モーセはアロンに言った。祭壇に進み出て、あなたの贖罪の献げ物と焼き尽くす献げ物とをささげて、あなたと民の罪を贖う儀式を行い、また民の献げ物をささげて、彼らの罪を贖う儀式を行いなさい。これは主が命じられたことである。
 9:8 アロンは祭壇に進み出て、自分の贖罪の献げ物として若い雄牛を屠った。
 9:9 アロンの子らが血をアロンに手渡すと、彼は指を血に浸して祭壇の四隅の角に塗り、残りの血を祭壇の基に流した。
 9:10 また献げ物の脂肪と腎臓と肝臓の尾状葉を、主がモーセに命じられたとおり、祭壇で燃やして煙にした。
 9:11 しかしその肉と皮は宿営の外で焼却した。

 9:22 アロンは手を上げて民を祝福した。彼が贖罪の献げ物、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物をささげ終えて、壇を下りると、
 9:23 モーセとアロンは臨在の幕屋に入った。彼らが出て来て民を祝福すると、主の栄光が民全員に現れた。
 9:24 そのとき主の御前から炎が出て、祭壇の上の焼き尽くす献げ物と脂肪とをなめ尽くした。これを見た民全員は喜びの声をあげ、ひれ伏した。

詩篇 99:1 主こそ王。諸国の民よ、おののけ。主はケルビムの上に御座を置かれる。地よ、震えよ。
 99:2 主はシオンにいまし、大いなる方。すべての民の上に高くいます。
 99:3 御名の大いなること、畏るべきことを告白せよ。主は聖なる方。
 99:4 力強い王、裁きを愛し、公平を固く定め ヤコブに対する裁きと恵みの御業を 御自ら、成し遂げられる。
 99:5 我らの神、主をあがめよ。その足台に向かってひれ伏せ。主は聖なる方。
 99:6 主の祭司からはモーセとアロンが 御名を呼ぶ者からはサムエルが、主を呼ぶと 主は彼らに答えられた。
 99:7 神は雲の柱から語りかけ 彼らに掟と定めを賜り 彼らはそれを守った。
 99:8 我らの神、主よ、あなたは彼らに答えられた。あなたは彼らを赦す神 彼らの咎には報いる神であった。
 99:9 我らの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かってひれ伏せ。我らの神、主は聖なる方。

1ペテロ 4:1 キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。
 4:2 それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。
 4:3 かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。
 4:4 あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。
 4:5 彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。
 4:6 死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。

 

 

旧約聖書には、主なる神様がモーセに命じて、民の罪の償いのために動物を生贄として捧げるよう命じられたことが記されている。

贖罪のための捧げものであるが、当然ながら、捧げられる動物の命は身代わりに過ぎず、本来ならば罪を犯した本人が償うか裁かれるかが必要なはずであろう。

人間の犯した罪を動物の命で償おうとしても、それで十分ではないのである。

新約聖書では、旧約聖書で語られていたそのいけにえの犠牲は、主イエス様の十字架の御業を指し示し、神の御子イエス様の命が私たちの罪の償いのために、イエス様が身代わりとして死なれたことが語られている。

これも、本来なら、自分自身が処刑されるべきであり、他人であるイエス様が死なれても、本来なら無関係なのかもしれない。

けれど、罪のない方、永遠なる神の御子の命が捧げられたのであり、私たち人間が償うにはに、とうてい及ばないほどの償いが成し遂げられているのであり、だからこそ、私たちの救いは完全なものと言えるのである。

もし、これらの償いを自分自身の命をもってしても、おそらく十分ではない。

私たち人間には、自分自身の罪を償うほどの価値あるものを持っていないからである。

永遠なる神の御子の尊い命が捧げられたことによって、私たちは贖われ、救われた者として、今の時を生かされている。

感謝と共に、贖われた者として、神のみ旨に適う生き方をしていきたいものである。