エゼキエル33章1~6節、詩篇119篇33~40節、マタイ23章29~36節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エゼキエル 33:1 主の言葉がわたしに臨んだ。
 33:2 「人の子よ、あなたの同胞に語りかけ、彼らに言いなさい。わたしがある国に向かって剣を送るとき、その国の民は彼らの中から一人の人を選んで見張りとする。
 33:3 彼は剣が国に向かって臨むのを見ると、角笛を吹き鳴らして民に警告する。
 33:4 角笛の音を聞いた者が、聞いていながら警告を受け入れず、剣が彼に臨んで彼を殺したなら、血の責任は彼自身にある。
 33:5 彼は角笛の音を聞いても警告を受け入れなかったのだから、血の責任は彼にある。彼が警告を受け入れていれば、自分の命を救いえたはずである。
 33:6 しかし、見張りが、剣の臨むのを見ながら、角笛を吹かず、民が警告を受けぬままに剣が臨み、彼らのうちから一人の命でも奪われるなら、たとえその人は自分の罪のゆえに死んだとしても、血の責任をわたしは見張りの手に求める。

詩篇 119:33 主よ、あなたの掟に従う道を示してください。最後までそれを守らせてください。
 119:34 あなたの律法を理解させ、保たせてください。わたしは心を尽くしてそれを守ります。
 119:35 あなたの戒めに従う道にお導きください。わたしはその道を愛しています。
 119:36 不当な利益にではなく あなたの定めに心を傾けるようにしてください。
 119:37 むなしいものを見ようとすることから わたしのまなざしを移してください。あなたの道に従って 命を得ることができますように。
 119:38 あなたの僕に対して、仰せを成就してください。わたしはあなたを畏れ敬います。
 119:39 わたしの恐れる辱めが わたしを避けて行くようにしてください。あなたは良い裁きをなさいます。
 119:40 御覧ください わたしはあなたの命令を望み続けています。恵みの御業によって 命を得させてください。

マタイ 23:29 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。
 23:30 そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。
 23:31 こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。
 23:32 先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。
 23:33 蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。
 23:34 だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。
 23:35 こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。
 23:36 はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」

 

 

聖書で語られている主なる神様の教えというのは、ともすると「神を愛し、隣人を愛せよ」といった戒めに関心が向かいがちであり、愛の人として、良き人であるようにふるまうことが求められているように思われる。

しかし、それらのことも大切ではあるが、もっと大切なことは、私たち人間にはそれができないのだということを思い知らされ、だからこそ、私たちは罪人であり、イエス様の十字架の贖いの犠牲がなければ、神の国にはいることができない者なのだという事を悟り、イエス様を救い主として信じて生きることが何より大切であるということを教えている。

イエス様は、ある個所では、ともすると人は自分の目の中に梁があるのに気づかず、他人の目の中の塵を取ろうとするようなものだと語られているが、まったくその通りであり、我々人間は、自分の中にある罪を認めようとしないばかりか、他人の罪ばかりを指摘し、裁こうとしてばかりではないだろうか。

そこに本当の愛はあるのか。

愛とは何か。

他人の罪を指摘して、他人を悔い改めさせること、ではなく、自分の罪を認め、自分自身が悔い改め、そのために神が罪の贖いのために御子イエス様の命を十字架に差し出してくださったことを覚え、それほどの愛を受けていることを知ることが何より大事なことであろう。

もちろん、他者に対して、罪を悔い改めてイエス様を信じていただくことを進めることも大切だが、イエス様は赦してくださるけれども、自分は赦せないというのなら、そのような人に他人の罪を指摘する資格などないだろう。

自分がいかに愛のないものであるかということをきちんと悟ったうえで、イエス様が私のために命を捨てて罪を赦そうとしてくださったように、私たちもまた、隣人に対して、赦し、受け入れていくものとならせていただきたいものである。

何も人助けや立派な愛の業ができなくてもいい。

イエス様が私を赦してくださったように、隣人に対しても、まずはその人の存在を認め、可能な限りその人のことを赦し、受け入れていく。

それが愛に生きるということなのだろう。