エゼキエル24章15~27節、詩篇119篇33~40節、ローマ10章15~21節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エゼキエル 24:15 主の言葉がわたしに臨んだ。
 24:16 「人の子よ、わたしはあなたの目の喜びを、一撃をもってあなたから取り去る。あなたは嘆いてはならない。泣いてはならない。涙を流してはならない。
 24:17 声をあげずに悲しめ。死者の喪に服すな。頭にターバンを巻き、足に靴を履きなさい。口ひげを覆うな。嘆きのパンを食べてはならない。」
 24:18 朝、わたしは人々に語っていた。その夕、わたしの妻は死んだ。翌朝、わたしは命じられたとおりに行った。
 24:19 人々はわたしに尋ねた。「あなたが行っているこれらの事は、我々にどんな意味があるのか告げてくれないか」と。
 24:20 そこでわたしは、彼らに語った。「主の言葉がわたしに臨んだ。
 24:21 イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。わたしは、わたしの聖所を汚す。それはお前たちの誇る砦であり、目の喜び、心の慕うものであった。お前たちが残してきた息子、娘たちは、剣によって滅びる。
 24:22 わたしがしたように、お前たちもするようになる。お前たちは口ひげを覆ってはならない。嘆きのパンを食べてはならない。
 24:23 頭にターバンを巻き、足に靴を履け。また、嘆いてはならない。泣いてはならない。お前たちは自分の罪のゆえに衰え、互いに嘆くようになる。
 24:24 エゼキエルは、お前たちにとってしるしとなる。すべて彼が行ったように、お前たちもするであろう。すべてが実現したとき、お前たちは、わたしが主なる神であることを知るようになる。」
 24:25 人の子よ、わたしが彼らから、その砦、栄光の喜び、目の喜び、心の望みであるもの、息子、娘たちを取り去る日、
 24:26 その日、逃れて来た者が来てあなたの耳に告げる。
 24:27 その日に、あなたは逃れて来た者に向かって口を開いて語り、もはや黙しているな。あなたは彼らに対してしるしとなり、彼らはわたしが主であることを知るようになる。

詩篇 119:33 主よ、あなたの掟に従う道を示してください。最後までそれを守らせてください。
 119:34 あなたの律法を理解させ、保たせてください。わたしは心を尽くしてそれを守ります。
 119:35 あなたの戒めに従う道にお導きください。わたしはその道を愛しています。
 119:36 不当な利益にではなく あなたの定めに心を傾けるようにしてください。
 119:37 むなしいものを見ようとすることから わたしのまなざしを移してください。あなたの道に従って 命を得ることができますように。
 119:38 あなたの僕に対して、仰せを成就してください。わたしはあなたを畏れ敬います。
 119:39 わたしの恐れる辱めが わたしを避けて行くようにしてください。あなたは良い裁きをなさいます。
 119:40 御覧ください わたしはあなたの命令を望み続けています。恵みの御業によって 命を得させてください。

ローマ 10:15 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。
 10:16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。
 10:17 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。
 10:18 それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。
 10:19 それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、「わたしは、わたしの民でない者のことであなたがたにねたみを起こさせ、愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」と言っています。
 10:20 イザヤも大胆に、「わたしは、わたしを探さなかった者たちに見いだされ、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と言っています。
 10:21 しかし、イスラエルについては、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言っています。

 

 

聖書が語るところの福音、すなわち、救いの約束の言葉は、信じる人にとっては、とても素晴らしく喜ばしい言葉であり、この世の何ものにも勝る幸いを与えてくれるものとなっていることであろう。

しかし、信じていない人たちにとっては、なぜそんなことを喜び、そんなことのために多くの時間やお金も費やすのかと不思議に思う事であろう。

もっと自分を楽しませてくれるものや幸せにしてくれるものがたくさんあるはずだ、とそう思うに違いない。

「推し活」といった言葉を耳にすることが多くなったが、それと同じようなものかもしれない。

推し活にいそしんでいる人たちのことは、推しではない人たちから見れば、何が良くてあんなに一生懸命になれるのだろうと思うし、いつか熱が冷めて、なんであんなものに時間もお金もつぎ込んでいたのだろうと思う時が来るのだろうと思う。

それはそれで、その時に考えればいいことかもしれないが、私たちの「推し」であるキリストは、裏切られることははない。

聖書を開けば、いつだって、無限の愛で私たちを愛し、喜びに与らせてくださる。

この熱は、多少のスタイルの変化はあっても、冷めることはないもの。

年齢や環境は変わるけれども、今の時代にあう形で、今の自分にふさわしいスタイルで、信仰の歩みを続けていきたいところ。