ホセア14章1~9節、詩篇40篇1~8節、マタイ12章1~8節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

ホセア 14:1 サマリアは罰せられる。その神に背いたからだ。住民は剣に倒れ 幼子は打ち殺され 妊婦は引き裂かれる。
 14:2 イスラエルよ、立ち帰れ あなたの神、主のもとへ。あなたは咎につまずき、悪の中にいる。
 14:3 誓いの言葉を携え 主に立ち帰って言え。「すべての悪を取り去り 恵みをお与えください。この唇をもって誓ったことを果たします。
 14:4 アッシリアはわたしたちの救いではありません。わたしたちはもはや軍馬に乗りません。自分の手が造ったものを 再びわたしたちの神とは呼びません。親を失った者は あなたにこそ憐れみを見いだします。」
 14:5 わたしは背く彼らをいやし 喜んで彼らを愛する。まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。
 14:6 露のようにわたしはイスラエルに臨み 彼はゆりのように花咲き レバノンの杉のように根を張る。
 14:7 その若枝は広がり オリーブのように美しく レバノンの杉のように香る。
 14:8 その陰に宿る人々は再び 麦のように育ち ぶどうのように花咲く。彼はレバノンのぶどう酒のようにたたえられる。
 14:9 ああエフライム なおも、わたしを偶像と比べるのか。彼の求めにこたえ 彼を見守るのはわたしではないか。わたしは命に満ちた糸杉。あなたは、わたしによって実を結ぶ。

詩篇 40:1  指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。
 40:2 主にのみ、わたしは望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。
 40:3 滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ わたしの足を岩の上に立たせ しっかりと歩ませ
 40:4 わたしの口に新しい歌を わたしたちの神への賛美を授けてくださった。人はこぞって主を仰ぎ見 主を畏れ敬い、主に依り頼む。
 40:5 いかに幸いなことか、主に信頼をおく人 ラハブを信ずる者にくみせず 欺きの教えに従わない人は。
 40:6 わたしの神、主よ あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。あなたに並ぶものはありません。わたしたちに対する数知れない御計らいを わたしは語り伝えて行きます。
 40:7 あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず 焼き尽くす供え物も 罪の代償の供え物も求めず ただ、わたしの耳を開いてくださいました。
 40:8 そこでわたしは申します。御覧ください、わたしは来ております。わたしのことは 巻物に記されております。

マタイ 12:1 そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。
 12:2 ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。
 12:3 そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。
 12:4 神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。
 12:5 安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。
 12:6 言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。
 12:7 もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。
 12:8 人の子は安息日の主なのである。」

 

 

「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とのイエス様の言葉は、神様の戒めや律法の言葉を理解する上では、とても重要なことばであると言える。

いけにえに対する思いが強いと、人は神様のために何ができるかとか、どれだけの捧げものを捧げることができるかと言った事に関心が向きがちで、ともすると、救われるためにそれらの行いが必要であるかのように捉えてしまいがちである。

しかし、イエス様ははっきりと「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」と仰せられている。

そもそも、神様は何一つ、不足するようなお方ではないから、人間の行いや捧げものなど必要としていない。

そうではなく、神は憐れみを求めておられる。

しかも、その憐れみとは、人間が他者を憐れむ心よりも、神が人間をどれだけ憐れんでおられるかということを受け取ることを望まれているのである。

神は人を愛し、憐れみ、救おうとされ、御子イエス様の命を人間の罪を償うための犠牲として捧げられ、このことを信じる人に、救いの約束を与え、永遠の命を与えたいと願われているのである。

私たちには、ただそれを感謝して受け取って欲しいのだ。

神がどれだけ人を愛しておられるか、そのことを知って欲しい、それが神様の真実の姿なのである。

もちろん、そのことを気づいて欲しいがゆえに、時に厳しい言葉も投げかけられてはいるが、その目的は、人が救われることである。

滅んでいい命など一人もいない。

神は愛である。

その言葉を本当の意味をしっかりと覚えておきたいものである。