出エジプト記4章18~23節、詩篇100篇、ヘブル3章1~6節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

出エジプト記 4:18 モーセがしゅうとのエトロのもとに帰って、「エジプトにいる親族のもとへ帰らせてください。まだ元気でいるかどうか見届けたいのです」と言うと、エトロは言った。「無事で行きなさい。」
 4:19 主はミディアンでモーセに言われた。「さあ、エジプトに帰るがよい、あなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった。」
 4:20 モーセは、妻子をろばに乗せ、手には神の杖を携えて、エジプトの国を指して帰って行った。
 4:21 主はモーセに言われた。「エジプトに帰ったら、わたしがあなたの手に授けたすべての奇跡を、心してファラオの前で行うがよい。しかし、わたしが彼の心をかたくなにするので、王は民を去らせないであろう。
 4:22 あなたはファラオに言うがよい。主はこう言われた。『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。
 4:23 わたしの子を去らせてわたしに仕えさせよと命じたのに、お前はそれを断った。それゆえ、わたしはお前の子、お前の長子を殺すであろう』と。」

詩篇 100:1  賛歌。感謝のために。 全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
 100:2 喜び祝い、主に仕え 喜び歌って御前に進み出よ。
 100:3 知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民 主に養われる羊の群れ。
 100:4 感謝の歌をうたって主の門に進み 賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。
 100:5 主は恵み深く、慈しみはとこしえに 主の真実は代々に及ぶ。

ヘブル 3:1 だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。
 3:2 モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました。
 3:3 家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。
 3:4 どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。
 3:5 さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、
 3:6 キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。

 

 

 

神に召されたモーセは、イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から救い出すために用いられることになるが、それは、将来現わされる、神の御子イエス様が死と滅びの奴隷となっているような私たちを救い出すことのひな型として用いられたと言える。

そのことについて、ヘブル3章5節ではっきりと語られており、モーセが多くの悩みや弱さを抱えながらも、イスラエルの民をエジプトから救い出すために用いられたように、イエス様も一人の人間として、私たち人間の受ける悩みや苦しみなどもしっかりと引き受けられ、十字架の死と復活の御業を通して、私たちの受けるはずであった一切の裁きを取り除いて下さったのである。

だからこそ、ここに本当の救いがあるし、イスラエルの民を導き出したモーセにまさるイエス様の素晴らしい救いの約束が私たちに開かれているのである。

この救いの約束は、全ての人に開かれているが、信仰を通してでしか受け取ることはできない。

というよりも、受け取るということは、相手に対する信頼がなければ成立しないものであり、それを信仰と呼ぶのであろう。

しかし、もし、この救いの約束を素直に受け取ることができたなら、これほど幸いな約束はない。

もはや永遠に滅びることのない命の約束を頂いているのだから。

神様は私たち一人一人を愛し、御子イエス様の尊い御業によって救いの御業を成し遂げて下さっている。

そこには、何か、私たち人間が何か足りない部分を補わなければならないような類のものではなく、神様が全てを用意し、成し遂げて下さっており、あとはただ、信仰を持って素直にこの恵みを受け取るだけで良いのである。

なにも特別な性格や業を行うことが求められているわけではない。

この約束に信頼して素直に受け取る事が、私たちのなすべきこと、すなわち召しと言えるのではないだろうか。

誰でも受けることのできる幸いな約束であるからこそ、主は素晴らしいのである。