ホセア8章11~14節、10章1~2節、詩篇40篇1~8節、ヘブル13章1~16節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

ホセア 8:11 エフライムは罪を償う祭壇を増やした。しかし、それは罪を犯す祭壇となった。
 8:12 わたしは多くの戒めを書き与えた。しかし、彼らはそれを無縁のものと見なした。
 8:13 わたしへの贈り物としていけにえをささげるが その肉を食べるのは彼らだ。主は彼らを喜ばれない。今や、主は彼らの不義に心を留め その罪を裁かれる。彼らはエジプトに帰らねばならない。
 8:14 イスラエルはその造り主を忘れた。彼らは宮殿を建て連ねた。ユダも要塞の町を増し加えたが わたしはその町々に火を送り 火は城郭を焼き尽くす。

 10:1 イスラエルは伸びほうだいのぶどうの木。実もそれに等しい。実を結ぶにつれて、祭壇を増し国 が豊かになるにつれて、聖なる柱を飾り立てた。
 10:2 彼らの偽る心は、今や罰せられる。主は彼らの祭壇を打ち砕き 聖なる柱を倒される。

詩篇 40:1  指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。
 40:2 主にのみ、わたしは望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。
 40:3 滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ わたしの足を岩の上に立たせ しっかりと歩ませ
 40:4 わたしの口に新しい歌を わたしたちの神への賛美を授けてくださった。人はこぞって主を仰ぎ見 主を畏れ敬い、主に依り頼む。
 40:5 いかに幸いなことか、主に信頼をおく人 ラハブを信ずる者にくみせず 欺きの教えに従わない人は。
 40:6 わたしの神、主よ あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。あなたに並ぶものはありません。わたしたちに対する数知れない御計らいを わたしは語り伝えて行きます。
 40:7 あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず 焼き尽くす供え物も 罪の代償の供え物も求めず ただ、わたしの耳を開いてくださいました。
 40:8 そこでわたしは申します。御覧ください、わたしは来ております。わたしのことは 巻物に記されております。
 ヘブル 13:1 兄弟としていつも愛し合いなさい。
 13:2 旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。
 13:3 自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。
 13:4 結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。
 13:5 金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。
 13:6 だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」
 13:7 あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。
 13:8 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。
 13:9 いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした。
 13:10 わたしたちには一つの祭壇があります。幕屋に仕えている人たちは、それから食べ物を取って食べる権利がありません。
 13:11 なぜなら、罪を贖うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれるからです。
 13:12 それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。
 13:13 だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。
 13:14 わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです。
 13:15 だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。
 13:16 善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。
 

 

 

聖書の言葉をどう読み、それに従ってどう生きていくか、それは御言葉をどう解釈するかによってもずいぶんと違ってくるだろう。

ただ、時代は変わっても、聖書において一貫して通じているものというのはあると言える。

旧約聖書で語られていた祭儀律法は、私たちの救いのために神の御子イエス様が十字架で死なれることのひな型として語られている。

つまり、預言である。

預言の言葉というのは、予表であり、実態がある以上、実態とは異なる表現になっていて当然である。

黙示や啓示も同様であろう。

多くの預言者たちが見た幻もそう。

はっきりとしたものを見たり、示されたりしているのではない。

ぼんやりと、おおまかな形を見たり、聞いたりしており、預言者たちは、それをなるべく忠実に自分が見たまま、聞いたままを言葉に表していった。

聖書の言葉は、すべて、神がご計画された救い主イエス様のことを教えようとしている。

むしろ、イエス様の十字架の贖いを見据えつつ、あらゆる聖書の言葉も聞いていこうとすると、それらの意味も自ずと見えてくるだろう。

 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのないお方。

 

2ペテロ1:16 わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。
1:17 荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。
1:18 わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。
1:19 こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。
1:20 何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。
1:21 なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。