レビ記15章25~31節、22章1~9節、詩篇40篇1~8節、2コリント6章14節~7章2節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

レビ記 15:25 もし、生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れており、生理期間中と同じように汚れる。
 15:26 この期間中に彼女が使った寝床は、生理期間中使用した寝床と同様に汚れる。また、彼女が使った腰掛けも月経による汚れと同様汚れる。
 15:27 また、これらの物に触れた人はすべて汚れる。その人は衣服を水洗いし、身を洗う。その人は夕方まで汚れている。
 15:28 彼女が出血の汚れから清くなり、七日間が過ぎたならば、その後は清くなる。
 15:29 八日目に、彼女は二羽の山鳩か家鳩を調え、それを臨在の幕屋の入り口で祭司に渡す。
 15:30 祭司は一羽を贖罪の献げ物、他の一羽を焼き尽くす献げ物として主の御前にささげ、彼女の異常出血の汚れを清めるために贖いの儀式を行う。
 15:31 あなたたちはイスラエルの人々を戒めて汚れを受けないようにし、あなたたちの中にあるわたしの住まいに彼らの汚れを持ち込んで、死を招かないようにしなさい。

 22:1 主はモーセに仰せになった。
 22:2 アロンとその子らに告げなさい。聖なるわたしの名を汚さぬよう、イスラエルの人々がわたしに奉納する聖なる献げ物に細心の注意を払いなさい。わたしは主である。
 22:3 また彼らに告げなさい。あなたたちの子孫のうちだれであれ、イスラエルの人々が主に奉納する聖なる献げ物に汚れたまま近づく者は、永久にわたしの前から断たれるであろう。わたしは主である。
 22:4 アロンの子孫であって、皮膚病にかかっている者や、漏出のある者はだれも、清くなるまでは聖なる献げ物を食べてはならない。死体に触れて汚れた者、精の漏出があった者、
 22:5 あるいは人を汚れさせる爬虫類、人を汚れさせる人間に触れた者は、その汚れの種類を問わず、
 22:6 すべてその日の夕方まで汚れている。彼は身を洗うまでは聖なる献げ物を食べることができない。
 22:7 日没になれば彼は清くなり、それ以後は聖なる献げ物を食べることができる。それは彼の食物だからである。
 22:8 死んだ動物や野獣にかみ殺された動物を食べて身を汚してはならない。わたしは主である。
 22:9 わたしの命令を守りなさい。それを破って罪を負い、それを汚して死を招いてはならない。わたしは彼らを聖別する主である。

詩篇 40:1  指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。
 40:2 主にのみ、わたしは望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。
 40:3 滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ わたしの足を岩の上に立たせ しっかりと歩ませ
 40:4 わたしの口に新しい歌を わたしたちの神への賛美を授けてくださった。人はこぞって主を仰ぎ見 主を畏れ敬い、主に依り頼む。
 40:5 いかに幸いなことか、主に信頼をおく人 ラハブを信ずる者にくみせず 欺きの教えに従わない人は。
 40:6 わたしの神、主よ あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。あなたに並ぶものはありません。わたしたちに対する数知れない御計らいを わたしは語り伝えて行きます。
 40:7 あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず 焼き尽くす供え物も 罪の代償の供え物も求めず ただ、わたしの耳を開いてくださいました。
 40:8 そこでわたしは申します。御覧ください、わたしは来ております。わたしのことは 巻物に記されております。

2コリント 6:14 あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。
 6:15 キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。
 6:16 神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
 6:17 だから、あの者どもの中から出て行き、遠ざかるように』と主は仰せになる。『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 6:18 父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。』全能の主はこう仰せられる。」
 7:1 愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。
 7:2 わたしたちに心を開いてください。わたしたちはだれにも不義を行わず、だれをも破滅させず、だれからもだまし取ったりしませんでした。
 

 

 

主なる神様が私たちをどれほど愛し、永遠の命にあずかる救いの約束を与えたいと願われたかということは、神ご自身が御子イエス様の命を十字架にかけてでも良いと思われたそのお姿によく表されている。

それほどに大きな犠牲を支払ってまです神のもの、聖なるものとしようとされたのだから、私たちもまた、神様の心を思いめぐらし、御心にかなう歩みへと歩み出していくことは大切なことである。

時に、これまでの滅びに通じるような生活を変え、悪しき習慣を改めていくことも必要かもしれない。

けれど、それでも私たちはこの世界に生きている間は、完全にこの世の事柄とは切り離せないし、むしろ、世に生きている人々を救うために我々が用いられるのならば、完全にこの世と切り離された生活を送るということは困難であろう。

ではどうすればいいのだろう。

世の人々と完全に切り離すのではなく、むしろ接する部分は持っておいた方が良い。

ただ、その際、世の事柄に支配され、そのために生きるような生き方にならないよう、自分をコントロールしていくことが大切である。

世の中で生きていくためには、様々な欲も全て切り捨てることは難しい。

けれども、よくに支配された生き方にならないように注意していくことはできるだろう。

お金やお酒も、それ自体は決して悪ではないし、用い方さえ間違わなければ、必ずしも悪いものでもないだろう。

大切な事は、それがなければ生きていけないほどに心が支配され、奴隷状態となってしまわないように心がけることである。

主なる神様は、私たちをあらゆる奴隷状態から解放し、主ご自身こそが真の神であられることを示されたからである。

 

マタイ6:21 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
6:22 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、
6:23 濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」

6:24 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

 

偶像とは、ただ単に神の形に刻んだ像のことを言っているだけではない。

私たちの心をとりこにし、心を支配し、奴隷状態にしてしまうような、様々なモノや事を指している。

どんなに立派な教えでも、人の心を支配し、コントロールしているのならば、それも偶像の一つになりうる。

 

ヨハネ8:32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

 

イエス様こそが私たちをあらゆる奴隷状態から解放し、まことの自由に与らせて下さる救いを成し遂げられたお方であることを覚え、この方の愛と恵みのうちに生きていきたいものである。