エゼキエル39章7~8,21~29節、詩篇104篇24~35節、ローマ8章18~24節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エゼキエル 39:7 わたしは、わが民イスラエルの中にわが聖なる名を知らせる。わたしはわが聖なる名を二度と汚させない。そのとき、諸国民はわたしが主であり、イスラエルの中の聖なる者であることを知るようになる。
 39:8 このことは到来し、実現する、と主なる神は言われる。それは、わたしが語った日である。

 39:21 わたしは国々の間にわが栄光を現し、国々はすべてわたしの行う裁きと、彼らの上に置くわたしの手を見る。
 39:22 その日から後、イスラエルの家はわたしが彼らの神、主であることを知るようになる。
 39:23 国々は、イスラエルの家がわたしに不信の行為を行ったために捕囚となったこと、また、わたしが顔を隠し、彼らを敵の手に渡したため、彼らは皆、剣に倒れたことを知るようになる。
 39:24 わたしは、彼らの汚れと罪に応じて行い、わたしの顔を隠した。
 39:25 それゆえ、主なる神はこう言われる。今やわたしはヤコブの繁栄を回復し、イスラエルの全家をわが聖なる名のゆえに熱い思いをもって憐れむ。
 39:26 彼らは自分の土地に安らかに住み、脅かす者がいなくなるとき、わたしに背いた恥とすべての不信の罪の責めを担う。
 39:27 わたしが彼らを諸国の民の中から帰らせ、敵の地から集めるとき、わたしは国々の前で、彼らを通して自分の聖なることを示す。
 39:28 わたしは彼らを国々に捕囚として送ったが、自分の土地に集めて、もはや、かの地には残さない。そのとき、彼らはわたしが彼らの神、主であることを知るようになる。
 39:29 わたしは二度とわが顔を彼らに隠すことなく、わが霊をイスラエルの家に注ぐ」と主なる神は言われる。

詩篇 104:24 主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。
 104:25 同じように、海も大きく豊かで その中を動きまわる大小の生き物は数知れない。
 104:26 舟がそこを行き交い お造りになったレビヤタンもそこに戯れる。
 104:27 彼らはすべて、あなたに望みをおき ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。
 104:28 あなたがお与えになるものを彼らは集め 御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。
 104:29 御顔を隠されれば彼らは恐れ 息吹を取り上げられれば彼らは息絶え 元の塵に返る。
 104:30 あなたは御自分の息を送って彼らを創造し 地の面を新たにされる。
 104:31 どうか、主の栄光がとこしえに続くように。主が御自分の業を喜び祝われるように。
 104:32 主が地を見渡されれば地は震え 山に触れられれば山は煙を上げる。
 104:33 命ある限り、わたしは主に向かって歌い 長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。
 104:34 どうか、わたしの歌が御心にかなうように。わたしは主によって喜び祝う。
 104:35 どうか、罪ある者がこの地からすべてうせ 主に逆らう者がもはや跡を絶つように。わたしの魂よ、主をたたえよ。ハレルヤ。

ローマ 8:18 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。
 8:19 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。
 8:20 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。
 8:21 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。
 8:22 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。
 8:23 被造物だけでなく、"霊"の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。
 8:24 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。

 

 

若い頃は生きていくのに必死で、あまり自分自身のことを顧みることのできるような余裕は無かったかもしれない。

しかし、子育ても終えて、静かな暮らしを送ることができるようになって、暇なのかわからないが、自分自身の人生を顧みることがある。

果たしてこれで良かったのだろうかとか、ざんげにも似たような思いに囚われることもあるし、逆に、赦されて生きてきたのだから、これで良かったのだろうと受け入れることもある。

忙しく過ごし、慌ただしく生きていた頃には見えなかったこともある。

自分が思うように行かないこともあったし、それでもこうして生きてこられたのだから、それもまた神の憐れみのおかげである。

そう思えた時、ようやく神様の示される本当の意味での栄光?と呼ばれるようなことが見えてくるような気がする。

いつか全ての答え合わせがわかる時が来るだろう。その時こそ、本当に神の栄光を見ることになるのだろう。

今は完全な形では見えなくても、その時が来るまでは必至にもがき続けて生きていけば良いのだろう。

今は受け入れがたいことや、赦しがたいことも、きっといつかは赦すことができるのだろう。

その時を待ち望みつつ、今は主に身を委ねて生きていよう。