ヨナ1章1節~2章1節、詩篇114篇、1コリント15章19~28節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

ヨナ 1:1 主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。
 1:2 「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」
 1:3 しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。ヤッファに下ると、折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった。
 1:4 主は大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりとなった。
 1:5 船乗りたちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげ、積み荷を海に投げ捨て、船を少しでも軽くしようとした。しかし、ヨナは船底に降りて横になり、ぐっすりと寝込んでいた。
 1:6 船長はヨナのところに来て言った。「寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない。」
 1:7 さて、人々は互いに言った。「さあ、くじを引こう。誰のせいで、我々にこの災難がふりかかったのか、はっきりさせよう。」そこで、くじを引くとヨナに当たった。
 1:8 人々は彼に詰め寄って、「さあ、話してくれ。この災難が我々にふりかかったのは、誰のせいか。あなたは何の仕事で行くのか。どこから来たのか。国はどこで、どの民族の出身なのか」と言った。
 1:9 ヨナは彼らに言った。「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ。」
 1:10 人々は非常に恐れ、ヨナに言った。「なんという事をしたのだ。」人々はヨナが、主の前から逃げて来たことを知った。彼が白状したからである。
 1:11 彼らはヨナに言った。「あなたをどうしたら、海が静まるのだろうか。」海は荒れる一方だった。
 1:12 ヨナは彼らに言った。「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている。」
 1:13 乗組員は船を漕いで陸に戻そうとしたが、できなかった。海がますます荒れて、襲いかかってきたからである。
 1:14 ついに、彼らは主に向かって叫んだ。「ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。」
 1:15 彼らがヨナの手足を捕らえて海へほうり込むと、荒れ狂っていた海は静まった。
 1:16 人々は大いに主を畏れ、いけにえをささげ、誓いを立てた。
 2:1 さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。

詩篇 114:1 イスラエルはエジプトを ヤコブの家は異なる言葉の民のもとを去り
 114:2 ユダは神の聖なるもの イスラエルは神が治められるものとなった。
 114:3 海は見て、逃げ去った。ヨルダンの流れは退いた。
 114:4 山々は雄羊のように 丘は群れの羊のように踊った。
 114:5 どうしたのか、海よ、逃げ去るとは ヨルダンの流れよ、退くとは
 114:6 山々よ、雄羊のように 丘よ、群れの羊のように踊るとは。
 114:7 地よ、身もだえせよ、主なる方の御前に ヤコブの神の御前に
 114:8 岩を水のみなぎるところとし 硬い岩を水の溢れる泉とする方の御前に。

1コリント 15:19 この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。
 15:20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
 15:21 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。
 15:22 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。
 15:23 ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、
 15:24 次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。
 15:25 キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。
 15:26 最後の敵として、死が滅ぼされます。
 15:27 「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。
 15:28 すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。

 

 

 

神様から命を受け、ニネベの町へ宣教するよう導かれたヨナであるが、その内容は、ニネベの町の人たちに悔い改めを求めるものであったため、自分に対し危害を加えられるかもしれないと思ったヨナは、全く異なる方向へと逃亡して行くのである。

しかも、乗り込んだ船が嵐に飲まれ、こうなった責任が自分にあることを責められ、ついに海に放り投げだされ、大魚に飲み込まれてしまうのである。

まさに、踏んだり蹴ったりである。

その後のヨナの行動も、何もかも思い通りに事が進まず、ヨナの宣教は苦難が続いていく。

しかし、興味深いことに、この出来事を通して、一人の命も失われていないのである。

まさに、主なる神様が十二万人以上のニネベの人たちの命を惜しまれたように、誰一人、失われてはならないために、ヨナにこのような苦難が降りかかってきた、ということなのだろう。

ヨナには気の毒であったかもしれないが、結果的には多くの人の命が救われたのである。

しかし、イエス様は多くの人の命を救うため、御自分の命を捧げられたお方である。

この犠牲だけは、どうすることもできなかった。

それはなぜか、我々人間がどうしようもない罪人であるから、である。

神の子イエス様の命が捧げられなければ救われることのないほど、罪深いもの、しかし、神はそんな私たちをどうしても救いたいと願われ、イエス様が一人、苦しみを引き受けて下さったのである。

誰一人、失われてはならない、そのためにイエス様の十字架の贖いの御業を、しっかりと受け止めていよう。