雅歌8章6~7節、詩篇16篇、ヨハネ20章11~20節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

雅歌 8:6 愛は死のように強く 熱情は陰府のように酷い。火花を散らして燃える炎。
 8:7 大水も愛を消すことはできない 洪水もそれを押し流すことはできない。愛を支配しようと 財宝などを差し出す人があれば その人は必ずさげすまれる。

 

詩篇 16:1  ミクタム。ダビデの詩。 神よ、守ってください あなたを避けどころとするわたしを。
 16:2 主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」
 16:3 この地の聖なる人々 わたしの愛する尊い人々に申します。
 16:4 「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず 彼らの神の名を唇に上らせません。」
 16:5 主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。
 16:6 測り縄は麗しい地を示し わたしは輝かしい嗣業を受けました。
 16:7 わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし わたしの心を夜ごと諭してくださいます。
 16:8 わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし わたしは揺らぐことがありません。
 16:9 わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。
 16:10 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
 16:11 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い 右の御手から永遠の喜びをいただきます。

 

ヨハネ 20:11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、
 20:12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。
 20:13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
 20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
 20:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
 20:16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
 20:17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
 20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
 20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
 20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。

 

 

 

マリアはイエス様のことを慕い、十字架で死なれた後も、せめてイエス様の遺体に香油を塗ろうとして墓へ来ていた。

そこで復活されたイエス様に出会うのであるが、イエス様はマリアにたいし「わたしにすがりつくのはよしなさい」と仰せられている。

もちろん、イエス様を慕う事は悪いことではないし、彼女のイエス様に対する信仰心や従おうとする姿勢は立派であろう。

しかし、その思いが強すぎてしまったり、歪んだものとなってしまうと、全く別のものとなってしまうこともある。

世の中には、ストーカーと呼ばれる行為が取りざたされたりすることがあるが、愛情が強すぎて行き過ぎたもの、歪んだものとなってしまうと、もはやそれは愛情とは呼べないものとなってしまうだろう。

マリアのイエス様の思いがそうだと言うわけではないが、マリアは未だ十字架で死なれる前のイエス様にすがろうとしていた、ということなのだろう。

それは、一人の人間としてのイエス様によしりすがっていた、ということであろう。

しかし、イエス様は十字架で死なれたあと、よみがえられた。

そして、多くの人を救いに導くお方である。

そのことを受けとめた上で、よみがえられたイエス様に従うことを促しておられるのだろう。

我々も、いつのまにか自分よがりの自己中心的な信仰になっていないか、顧みることが必要である。

イエス様は私のためにも十字架で死なれたかが、他の多くの人々の救いのためにも死なれ、そしてよみがえられた。

この救い主イエス様に一人でも多くの人が出会ってほしい。