雅歌 5:9 あなたの恋人はどんなにいいひと だれにもまして美しいおとめよ。あなたの恋人はどんなにいいひと こんな誓いをさせるとは。
5:10 わたしの恋しい人は 赤銅色に輝き、ひときわ目立つ。
5:11 頭は金、純金で 髪はふさふさと、烏の羽のように黒い。
5:12 目は水のほとりの鳩 乳で身を洗い、形よく座っている。
5:13 頬は香り草の花床、かぐわしく茂っている。唇はゆりの花、ミルラのしずくを滴らせる。
5:14 手はタルシシュの珠玉をはめた金の円筒 胸はサファイアをちりばめた象牙の板
5:15 脚は純金の台に据えられた大理石の柱。姿はレバノンの山、レバノン杉のような若者。
5:16 その口は甘美、なにもかもわたしを魅惑する。エルサレムのおとめたちよ これがわたしの恋する人、これがわたしの慕う人。
6:1 あなたの恋人はどこに行ってしまったの。だれにもまして美しいおとめよ あなたの恋人はどこに行ってしまったの。一緒に探してあげましょう。
6:2 わたしの恋しい人は園に 香り草の花床に下りて行きました。園で群れを飼い、ゆりの花を手折っています。
6:3 恋しいあの人はわたしのもの わたしは恋しいあの人のもの ゆりの中で群れを飼っているあの人のもの。
詩篇 16:1 ミクタム。ダビデの詩。 神よ、守ってください あなたを避けどころとするわたしを。
16:2 主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」
16:3 この地の聖なる人々 わたしの愛する尊い人々に申します。
16:4 「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず 彼らの神の名を唇に上らせません。」
16:5 主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。
16:6 測り縄は麗しい地を示し わたしは輝かしい嗣業を受けました。
16:7 わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし わたしの心を夜ごと諭してくださいます。
16:8 わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし わたしは揺らぐことがありません。
16:9 わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。
16:10 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
16:11 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い 右の御手から永遠の喜びをいただきます。
1コリント 15:1 兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。
15:2 どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。
15:3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、
15:4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
15:5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
15:6 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。
15:7 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、
15:8 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。
15:9 わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。
15:10 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。
15:11 とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。
ここ最近、ニュースなどで福音派と呼ばれるグループのことが取りあげられるようになっている。
福音派と言う場合の福音とは、聖書の言葉が一字一句誤りのない神の言葉である、と信じているという意味を示すものと言えるだろう。
だから、福音派の人たちは、聖書に書かれていることは全て真実であり、そこに語られていることは必ず実現すると信じているのである。
しかし、そもそも福音という言葉は「良い知らせ」とか「グッドニュース」といった意味を表す言葉であり、単に聖書の言葉は全て真実であるといったことだけを示すものではなく、そこに語られている真実な言葉の中に、人々に幸いをもたらす喜ばしい知らせであるということが伝えられてこそ「福音」と呼べるのであることを覚えなければならないだろう。
では聖書ではどんな良い知らせが語られているのか。
パウロがコリントの教会に宛てて書き送った手紙には、彼自身が出会ったイエス様について、聖書に書いてある通り私たちの罪のために死んで葬られ、三日目によみがえり、多くの人々にその復活の姿を現わされ、信じる者に対しても、死で終わりではなく、復活の希望が与えられることが約束されていると語られ、このことは人間の知恵や力によるものではなく、全て神の恵みによるものであることが語られ、神の恵みによって救いにあずかることができるからこそ、これが喜ばしい良き知らせとなりうることを示していると言えよう。
もちろん、死者が復活するなどということは、ある人たちにとっては馬鹿げたことだと思うかもしれない。
しかし、人が死んでも、永遠に滅び去っていくのではなく、新しい命に変えられ、天の御国において再び再会できるとしたならば、どんなに幸いなことであろう。
聖書はそのような幸いな約束を語り、私たちはそれを信じていきたい、それだけである。
だからと言って、この地上において簡単に失われても良い命などない。
イエス様は、全ての人を救おうとして、御自分の命をも捧げられたのだから。
それほどまでに私たちの命を慈しみ、尊ばれた、その事実を覚えておきたいものである。