イザヤ42章1~9節、詩篇36篇6~12節、ヘブル9章11~15節、ヨハネ12章1~11節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ 42:1 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ 彼は国々の裁きを導き出す。
 42:2 彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
 42:3 傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく 裁きを導き出して、確かなものとする。
 42:4 暗くなることも、傷つき果てることもない この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。
 42:5 主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ 地とそこに生ずるものを繰り広げ その上に住む人々に息を与え そこを歩く者に霊を与えられる。
 42:6 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として あなたを形づくり、あなたを立てた。
 42:7 見ることのできない目を開き 捕らわれ人をその枷から 闇に住む人をその牢獄から救い出すために。
 42:8 わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。
 42:9 見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。

詩篇 36:6 主よ、あなたの慈しみは天に あなたの真実は大空に満ちている。
 36:7 恵みの御業は神の山々のよう あなたの裁きは大いなる深淵。主よ、あなたは人をも獣をも救われる。
 36:8 神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ
 36:9 あなたの家に滴る恵みに潤い あなたの甘美な流れに渇きを癒す。
 36:10 命の泉はあなたにあり あなたの光に、わたしたちは光を見る。
 36:11 あなたを知る人の上に 慈しみが常にありますように。心のまっすぐな人の上に 恵みの御業が常にありますように。
 36:12 神に逆らう者の手が わたしを追い立てることを許さず 驕る者の足が わたしに迫ることを許さないでください。

ヘブル 9:11 けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、
 9:12 雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。
 9:13 なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、
 9:14 まして、永遠の"霊"によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。
 9:15 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。

ヨハネ 12:1 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。
 12:2 イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。
 12:3 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
 12:4 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。
 12:5 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
 12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。
 12:7 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。
 12:8 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
 12:9 イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。
 12:10 祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。
 12:11 多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。

 

 

長らく信仰者として歩んできたせいか、いろんなところで傷つき、打ちのめされるような経験も重ねてきた。

もはや、活力ある人生を歩めるような年齢でもないのかもしれない。

けれど、だからだろうか、若いころと違って、聖書のみ言葉の持つ意味合いが変ってきたのか、深く心に染みわたるような気がする。

 

イザヤ 42:1 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ 彼は国々の裁きを導き出す。
 42:2 彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
 42:3 傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく 裁きを導き出して、確かなものとする。

 

長い人生を歩んでいると、深く傷つくことも多いし、その傷が癒える暇もないまま、そのままの状態となっていることも多い。

かつてのような希望に満ちた活力も失われ、くすぶる灯心のごとく、ブスブスとくすぶり続けている。

それでも主なる神様は決して突き放されることも見捨てられることもなく、むしろ、そのまま受け止め、愛していて下さるのだ。

そこに神様の深い愛と憐れみ、恵みを思う。


イザヤ 42:4 暗くなることも、傷つき果てることもない この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。
 42:5 主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ 地とそこに生ずるものを繰り広げ その上に住む人々に息を与え そこを歩く者に霊を与えられる。
 42:6 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として あなたを形づくり、あなたを立てた。
 42:7 見ることのできない目を開き 捕らわれ人をその枷から 闇に住む人をその牢獄から救い出すために。
 

輝かしい成功体験や、豊かな生活を送る事だけが人生の最終目的でもないし、そんなことを追い求めたところで、人はいつか死を迎えるし、どんなに多くの富や名声を手にしても、天に持って行くことはできない。

それよりも、主なる神様がどれだけ私のことを愛し、憐れんでいて下さるかということを知る事こそが幸いであろう。

 

ということで、今日もまた、傷ついたまま、くすぶったままでもいいから、等身大の自分のまま歩み続けていよう。