民数記21章4~9節、詩篇128篇、ヘブル3章1~6節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

民数記 21:4 彼らはホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海の道を通って行った。しかし、民は途中で耐えきれなくなって、
 21:5 神とモーセに逆らって言った。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」
 21:6 主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。
 21:7 民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。
 21:8 主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」
 21:9 モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。

詩篇 128:1  都に上る歌。 いかに幸いなことか 主を畏れ、主の道に歩む人よ。
 128:2 あなたの手が労して得たものはすべて あなたの食べ物となる。あなたはいかに幸いなことか いかに恵まれていることか。
 128:3 妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。食卓を囲む子らは、オリーブの若木。
 128:4 見よ、主を畏れる人はこのように祝福される。
 128:5 シオンから 主があなたを祝福してくださるように。命のある限りエルサレムの繁栄を見
 128:6 多くの子や孫を見るように。イスラエルに平和。

ヘブル 3:1 だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。
 3:2 モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました。
 3:3 家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。
 3:4 どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。
 3:5 さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、
 3:6 キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。

 

 

 

申命記21章の箇所では、神に背いたイスラエルの民を悔い改めに導くために、主なる神様が炎の蛇を送り、民が回心したことが記されている。

その後、モーセはこのことを記念して、青銅の蛇を旗竿に掲げ、これを見上げるものは救われると語られている。

この出来事については、ヨハネ福音書3章で「モーセが荒野で蛇をあげたように、人の子も上げられなければならない」とイエス様がと仰せられており、十字架にかけられたイエス様を救い主として仰ぎ見るものは救われるということを教えている。

 

ヨハネ3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
3:15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 

しかし、十字架にかけられたイエス様のお姿は、単なる救いのシンボルであるとか、約束を証明するためのものであるだけではなく、まぎれもなく、私たちの身代わりの犠牲である。

本来なら、私たち自身が己の罪のゆえに、十字架にはりつけにされて処刑されなければならないほどのものであったはずなのだ。

だから、イエス様の十字架を「見上げるだけ」で救われるのではなく、見て、それが私のために神ご自身が引き受けて下さった身代わりの死であったからこそ、私が滅ぼされることから免れて、救われた者としてここにいるのだということを覚えたい。