ヨブ25章1節~26章14節、詩篇123篇、ヨハネ5章19~29節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

ヨブ 25:1 シュア人ビルダドは答えた。
 25:2 恐るべき支配の力を神は御もとにそなえ 天の最も高いところに平和を打ち立てられる。
 25:3 まことにその軍勢は数限りなく その光はすべての人の上に昇る。
 25:4 どうして、人が神の前に正しくありえよう。どうして、女から生まれた者が清くありえよう。
 25:5 月すらも神の前では輝かず 星も神の目には清らかではない。
 25:6 まして人間は蛆虫 人の子は虫けらにすぎない。
 26:1 ヨブは答えた。
 26:2 あなた自身はどんな助けを力のない者に与え どんな救いを無力な腕にもたらしたというのか。
 26:3 どんな忠告を知恵のない者に与え どんな策を多くの人に授けたというのか。
 26:4 誰の言葉を取り次いで語っているのか。誰の息吹があなたを通して吹いているのか。
 26:5 亡者たち、陰府の淵に住む者たちは 水の底でのたうち回る。
 26:6 陰府も神の前ではあらわであり 滅びの国も覆われてはいない。
 26:7 神は聖なる山を茫漠としたさかいに横たわらせ 大地を空虚の上につるされた。
 26:8 密雲の中に水を蓄えられても 雲の底は裂けない。
 26:9 神は御自分の雲を広げて 玉座を覆い隠される。
 26:10 原始の海の面に円を描いて 光と暗黒との境とされる。
 26:11 天の柱は揺らぎ その叱咤に動転する。
 26:12 神は御力をもって海を制し 英知をもってラハブを打たれた。
 26:13 風をもって天をぬぐい 御手は逃げる大蛇を刺し貫いた。
 26:14 だが、これらは神の道のほんの一端。神についてわたしたちの聞きえることは なんと僅かなことか。その雷鳴の力強さを誰が悟りえよう。

詩篇 123:1  都に上る歌。 目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます 天にいます方よ。
 123:2 御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ はしためが女主人の手に目を注ぐように わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ 憐れみを待ちます。
 123:3 わたしたちを憐れんでください。主よ、わたしたちを憐れんでください。わたしたちはあまりにも恥に飽かされています。
 123:4 平然と生きる者らの嘲笑に 傲然と生きる者らの侮りに わたしたちの魂はあまりにも飽かされています。

ヨハネ 5:19 そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。
 5:20 父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。
 5:21 すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。
 5:22 また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。
 5:23 すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。
 5:24 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
 5:25 はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。
 5:26 父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。
 5:27 また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。
 5:28 驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、
 5:29 善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。

 

 

 

ヨブ記25章においてビルダドが述べていることは正しいことであろう。

まことの神は、恐るべき支配の力をそなえ、天の最も高いところに平和を打ち立て、その軍勢は数限りなく、その光はすべての人の上に昇る、と。
そして、全ての人間は神の前に正しくなく、清い者など一人もいない。
まるで蛆虫や虫けらのような存在にすぎない。

これらのことは、まことに確かなことであるし、誰にも否定することのできない真実であろう。

しかし、主なる神様は、それをひっくり返していかれたのである。

真実で正しい方が、蛆虫か虫けらのような存在でしかない愚かな人間を救おうとし、全てを支配し、天においてまで真の平和を打ち立てることのできる御力を用いて、わざわざ御自分の命を捧げることによって、全ての人の救いを実現しようとなさったのである。

こんなことは、とうてい「正しいこと」とは真逆のことと言えるだろうし、神様はとんでもないことをなさっているのである。

ヨブの友人たちも、またヨブが訴えていることも、どちらも真実であろうし、神は正しい方であり、罪を犯しているものを裁かれないお方ではない。

しかし、神は愛と憐れみのお方であり、裁きも完璧に行われると同時に、救いをも完璧に成し遂げて、私たちにその救いにあずかる道を開いて下さったのである。

それがイエス様の十字架であり、そのイエス様の十字架の出来事に頼って信じることによって救われる、という方法を示されたのである。

イエスさまがなぜわざわざ人の姿を取って世にあわられたのか、そして、その生涯が十字架で死なれるためであったということを思う時、私たちにはただただ、神の深いご愛と憐れみの心に感謝して受け取る事しかできないだろう。

でも、それでいい。

そうすることを神は願われているのだから。

そこまでしたいと思うほど、私たちのことを愛して下さっているのだから。

神が望まれていることが私たちにとっても最善であり、愛されている幸いを覚え、しっかりと御言葉に語られている救いの約束を受け取っていきたいものである。