ヨブ 21:1 ヨブは答えた。
21:17 神に逆らう者の灯が消され、災いが襲い 神が怒って破滅を下したことが何度あろうか。
21:18 藁のように風に吹き散らされ もみ殻のように 突風に吹き飛ばされたことがあろうか。
21:19 神は彼への罰を その子らの代にまで延ばしておかれるのか。彼自身を罰して 思い知らせてくださればよいのに。
21:20 自分の目で自分の不幸を見 全能者の怒りを飲み干せばよいのだ。
21:21 人生の年月が尽きてしまえば 残された家はどうなってもよいのだから。
21:22 「人が神に知識を授けえようか。彼は高きにいまし、裁きを行われる」と言う。
21:23 ある人は、死に至るまで不自由なく 安泰、平穏の一生を送る。
21:24 彼はまるまると太り 骨の髄まで潤っている。
21:25 また、ある人は死に至るまで悩み嘆き 幸せを味わうこともない。
21:26 だが、どちらも塵に横たわれば 等しく、蛆に覆われるではないか。
21:27 あなたたちの考えはよく分かっている。わたしに対して不法にも悪をたくらんでいるのだ。
21:28 「あの高潔な人の館はどうなり この神に逆らう者の住まいとした天幕は どうなったのか」とあなたたちは問う。
21:29 通りかかる人々に尋ねなかったのか。両者の残した証しを 否定することはできないであろう。
21:30 悪人が災いの日を免れ 怒りの日を逃れているのに
21:31 誰が面と向かってその歩んできた道を暴き 誰がその仕業を罰するだろうか。
21:32 彼は葬式の行列によって運ばれ その墓には番人も立ち
21:33 谷間の土くれさえ彼には快さそうだ。人は皆彼の後に続き 彼の前にも、人は数えきれない。
21:34 それなのに空しい言葉で どのようにわたしを慰めるつもりか。あなたたちの反論は欺きにすぎない。
詩篇 123:1 都に上る歌。 目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます 天にいます方よ。
123:2 御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ はしためが女主人の手に目を注ぐように わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ 憐れみを待ちます。
123:3 わたしたちを憐れんでください。主よ、わたしたちを憐れんでください。わたしたちはあまりにも恥に飽かされています。
123:4 平然と生きる者らの嘲笑に 傲然と生きる者らの侮りに わたしたちの魂はあまりにも飽かされています。
2ヨハネ 1:1 長老のわたしから、選ばれた婦人とその子たちへ。わたしは、あなたがたを真に愛しています。わたしばかりでなく、真理を知っている人はすべて、あなたがたを愛しています。
1:2 それは、いつもわたしたちの内にある真理によることで、真理は永遠にわたしたちと共にあります。
1:3 父である神と、その父の御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちにわたしたちと共にあります。
1:4 あなたの子供たちの中に、わたしたちが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました。
1:5 さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。
1:6 愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。
1:7 このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。
1:8 気をつけて、わたしたちが努力して得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい。
1:9 だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません。その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。
1:10 この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。
1:11 そのような者に挨拶する人は、その悪い行いに加わるのです。
1:12 あなたがたに書くことはまだいろいろありますが、紙とインクで書こうとは思いません。わたしたちの喜びが満ちあふれるように、あなたがたのところに行って親しく話し合いたいものです。
1:13 あなたの姉妹、選ばれた婦人の子供たちが、あなたによろしくと言っています。
ヨハネの手紙には、長老から選ばれた夫人とその子供たちへ宛てられたメッセージが語られている。
完結に言えば、あなたがたは神の教えを守り、互いに愛し合うようにとのことであるが、単純に愛し合いなさいということだけで終わらず、キリストの教えを踏まえた上で愛し合うようにと勧められていることに注目すべきであろう。
ある人が、自分の孫が可愛くて、自分のところに訪ねてくるたびにお小遣いをあげていたようであるが、いつのまにかそれをあてにした孫が、欲しいものがあるからとか、今月は少しお金に困っているからと言っては、頻繁に訪ねてきてはお小遣いをせびるようになり、派手な生活を送るようになってしまったといって嘆いていた。
たしかに孫は可愛いし、孫のためなら何でもしてあげたいと思うのは、祖父母とすれば当然のことなのかもしれない。
しかし、愛だと思って行っていたことが、結果的に孫を駄目にしてしまうようならば、それはもはや愛の業とは言えないだろう。
だから、ヨハネの手紙においては、しっかりとキリストの教えとか、キリストが肉となって来られたことを公に言い表すといったことと絡めて語られているのであろう。
自分の命をも犠牲にしてまで失われた魂を救おうとされたイエス様のお姿こそが本当の愛であり、私たちはそのことをお伝えすることこそが本物の愛の業であるということを覚えたい。
イエス様が命を懸けて成し遂げて下さった救いの約束は、この地上におけるどんなプレゼントや祝福にも遠く及ばない、最高の愛の言葉である。
私たちは、その愛をお伝えしていく者でありたいものである。