創世記6章1~6節、詩篇51篇3~12節、1テモテ1章1~11節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

創世記 6:1 さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。
 6:2 神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。
 6:3 主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。
 6:4 当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった。
 6:5 主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、
 6:6 地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。

詩篇 51:3 神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください。
 51:4 わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください。
 51:5 あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
 51:6 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し 御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく あなたの裁きに誤りはありません。
 51:7 わたしは咎のうちに産み落とされ 母がわたしを身ごもったときも わたしは罪のうちにあったのです。
 51:8 あなたは秘儀ではなくまことを望み 秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。
 51:9 ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください わたしが清くなるように。わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように。
 51:10 喜び祝う声を聞かせてください あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。
 51:11 わたしの罪に御顔を向けず 咎をことごとくぬぐってください。
 51:12 神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。

1テモテ 1:1 わたしたちの救い主である神とわたしたちの希望であるキリスト・イエスによって任命され、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、
 1:2 信仰によるまことの子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。
 1:3 マケドニア州に出発するときに頼んでおいたように、あなたはエフェソにとどまって、ある人々に命じなさい。異なる教えを説いたり、
 1:4 作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。
 1:5 わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。
 1:6 ある人々はこれらのものからそれて、無益な議論の中に迷い込みました。
 1:7 彼らは、自分の言っていることも主張している事柄についても理解していないのに、律法の教師でありたいと思っています。
 1:8 しかし、わたしたちは、律法は正しく用いるならば良いものであることを知っています。
 1:9 すなわち、次のことを知って用いれば良いものです。律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、
 1:10 みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、偽りを言う者、偽証する者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えられているのです。
 1:11 今述べたことは、祝福に満ちた神の栄光の福音に一致しており、わたしはその福音をゆだねられています。

 

 

創世記6章ぼ冒頭に書かれている事柄は、正直、何が語られているのかよくわからないし、これらのことにどういう意味があるのか詮索することは、かえって混乱をきたすことになるのではないだろうか。

テモテの手紙の箇所では、作り話や切りのない系図などに心を奪われて、無意味な詮索をしないようにとの勧めの言葉も語られている。

聖書には、書かれている事柄の意味がよく分からないことも多いが、それらの全てを理解する必要はないのかもしれない。

もし、それらの意味を詮索することによって、真の救い主について見失ってしまうようなことになるのなら、本末転倒なこととなってしまうだろう。

大切な事は「信仰による神の救いの計画の実現」を知る事であり、そのために神のみ言葉である聖書に耳を傾け、受け取って行くことが大切である。

ましてや、神の御心について、全てを知りうることなど人間には不可能なことであることを思うなら、神の言葉を全て理解しているかのような顔をして人に教えようとしても、ただ自分には知識があると思い上がって他人を見下し、裁いていくだけの者となるだけであろう。

分からないことは分からないままでいい、本当に知るべきことだけをしっかりと受け取り、神の御業によって救われた喜びに生きる者とならせていただきたいものである。