列王記下18章19~25節、19章1~7節、詩篇101篇、ルカ18章18~30節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

列王記下 18:19 そこでラブ・シャケは彼らに言った。「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリアの王はこう言われる。なぜこんな頼りないものに頼っているのか。
 18:20 ただ舌先だけの言葉が戦略であり戦力であると言うのか。今お前は誰を頼みにしてわたしに刃向かうのか。
 18:21 今お前はエジプトというあの折れかけの葦の杖を頼みにしているが、それはだれでも寄りかかる者の手を刺し貫くだけだ。エジプトの王ファラオは自分を頼みとするすべての者にとってそのようになる。
 18:22 お前たちは、『我々は我々の神、主に依り頼む』と言っているが、ヒゼキヤはユダとエルサレムに向かい、『エルサレムにあるこの祭壇の前で礼拝せよ』と言って、その主の聖なる高台と祭壇を取り除いたのではなかったか。
 18:23 今わが主君、アッシリアの王とかけをせよ。もしお前の方でそれだけの乗り手を準備できるなら、こちらから二千頭の馬を与えよう。
 18:24 戦車について、騎兵についてエジプトなどを頼みにしているお前に、どうしてわが主君の家臣のうちの最も小さい総督の一人すら追い返すことができようか。
 18:25 わたしは今、主とかかわりなくこの所を滅ぼしに来たのだろうか。主がわたしに、『この地に向かって攻め上り、これを滅ぼせ』とお命じになったのだ。」

 19:1 ヒゼキヤ王はこれを聞くと衣を裂き、粗布を身にまとって主の神殿に行った。
 19:2 また彼は宮廷長エルヤキム、書記官シェブナ、および祭司の長老たちに粗布をまとわせ、預言者、アモツの子イザヤのもとに遣わした。
 19:3 彼らはイザヤに言った。「ヒゼキヤはこう言われる。『今日は苦しみと、懲らしめと、辱めの日、胎児は産道に達したが、これを産み出す力がない。
 19:4 生ける神をののしるために、その主君、アッシリアの王によって遣わされて来たラブ・シャケのすべての言葉を、あなたの神、主は恐らく聞かれたことであろう。あなたの神、主はお聞きになったその言葉をとがめられるであろうが、ここに残っている者のために祈ってほしい。』」
 19:5 ヒゼキヤ王の家臣たちがイザヤのもとに来ると、
 19:6 イザヤは言った。「あなたたちの主君にこう言いなさい。『主なる神はこう言われる。あなたは、アッシリアの王の従者たちがわたしを冒涜する言葉を聞いても、恐れてはならない。
 19:7 見よ、わたしは彼の中に霊を送り、彼がうわさを聞いて自分の地に引き返すようにする。彼はその地で剣にかけられて倒される。』」

詩篇 101:1  ダビデの詩。賛歌。 慈しみと裁きをわたしは歌い 主よ、あなたに向かって、ほめ歌います。
 101:2 完全な道について解き明かします。いつ、あなたは わたしを訪れてくださるのでしょうか。わたしは家にあって 無垢な心をもって行き来します。
 101:3 卑しいことを目の前に置かず 背く者の行いを憎み まつわりつくことを許さず
 101:4 曲がった心を退け 悪を知ることはありません。
 101:5 隠れて友をそしる者を滅ぼし 傲慢な目、驕る心を持つ者を許しません。
 101:6 わたしはこの地の信頼のおける人々に目を留め わたしと共に座に着かせ 完全な道を歩く人を、わたしに仕えさせます。
 101:7 わたしの家においては 人を欺く者を座に着かせず 偽って語る者をわたしの目の前に立たせません。
 101:8 朝ごとに、わたしはこの地の逆らう者を滅ぼし 悪を行う者をことごとく、主の都から断ちます。

ルカ 18:18 ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。
 18:19 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
 18:20 『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
 18:21 すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
 18:22 これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
 18:23 しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。
 18:24 イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。
 18:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
 18:26 これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、
 18:27 イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。
 18:28 するとペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言った。
 18:29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、
 18:30 この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」

 

 

 

人が何を頼りにして生きているか、あるいは、何を大切なことと考えているかということは、自ずと、その人の生き方に現れてくる。

清い人間になりたいと願っている人は、どうすれば清い人間になれるかということに沿った生き方になるだろうし、お金持ちになりたいと願っている人は、常にお金のことを考え、どうすれば損か得かといった計算のもとに行動していくだろう。

しかし、いかなる人間の努力や功績も、それによって永遠の命を獲得することに通じるわけではない。

むしろ、真の救いの道をもたらして下さる神を求めることを損なってしまうことのほうが多い。

イエス様は、人が清められて神の栄光の御国に入ることができるようにするため、全ての人の救いのために、身代わりとなって人間の犯すあらゆる罪の償いを十字架の死によって成し遂げて下さっている。

この事によってでしか、私たちは自分の罪を清めることはできないし、他のどんな方法によっても永遠の命を獲得することはできない。

もっとも、だからと言って、いっさいの清い生き方を追い求めることはするな、というわけではないし、様々な功績を追い求めていくことは無意味だというわけではない。

ただ、人がどんなに清く生きようとしても、また、良き業を行おうとしても、完全には罪の影響を巻逃れることはできないし、自己都合によってゆがめられた善であったり、生き方となりやすいということは覚えておく必要があるだろう。

人がどんなに清い生き方を追い求めたとしても、どこかで必ず罪の影響があるし、そのような人間の業によって、救いを達成することは不可能である。

救いはただただ神の恵みによるものであるということを覚え、まことの救いを成し遂げて下さった救い主イエス様を頼り、従って生きるものとならせていただきたい。