列王記下18章9~18節、詩篇101篇、1テモテ4章6~16節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

列王記下 18:9 ヒゼキヤ王の治世第四年、イスラエルの王、エラの子ホシェアの治世第七年に、アッシリアの王シャルマナサルがサマリアに攻め上って来て、これを包囲し、
 18:10 三年後に占領した。サマリアが占領されたのは、ヒゼキヤの治世第六年、イスラエルの王ホシェアの第九年であった。
 18:11 アッシリアの王はイスラエル人を捕らえてアッシリアに連れて行き、ヘラ、ハボル、ゴザン川、メディアの町々にとどまらせた。
 18:12 こうなったのは、彼らが自分たちの神、主の御声に聞き従わず、その契約と、主の僕モーセが命じたすべてのことを破ったからである。彼らは聞き従わず、実行しなかった。
 18:13 ヒゼキヤ王の治世第十四年に、アッシリアの王センナケリブが攻め上り、ユダの砦の町をことごとく占領した。
 18:14 ユダの王ヒゼキヤは、ラキシュにいるアッシリアの王に人を遣わし、「わたしは過ちを犯しました。どうかわたしのところから引き揚げてください。わたしは何を課せられても、御意向に沿う覚悟をしています」と言わせた。アッシリアの王はユダの王ヒゼキヤに銀三百キカルと金三十キカルを課した。
 18:15 ヒゼキヤは主の神殿と王宮の宝物庫にあったすべての銀を贈った。
 18:16 またこのときユダの王であるヒゼキヤは、自分が金で覆った主の神殿の扉と柱を切り取り、アッシリアの王に贈った。
 18:17 アッシリアの王は、ラキシュからタルタン、ラブ・サリスおよびラブ・シャケを大軍と共にヒゼキヤ王のいるエルサレムに遣わした。彼らはエルサレムに上って来た。彼らは上って来て、布さらしの野に至る大通りに沿って上の貯水池から来る水路の傍らに立ち止まった。
 18:18 彼らは王に呼びかけると、ヒルキヤの子である宮廷長エルヤキム、書記官シェブナ、アサフの子である補佐官ヨアが彼らの前に出て行った。

詩篇 101:1  ダビデの詩。賛歌。 慈しみと裁きをわたしは歌い 主よ、あなたに向かって、ほめ歌います。
 101:2 完全な道について解き明かします。いつ、あなたは わたしを訪れてくださるのでしょうか。わたしは家にあって 無垢な心をもって行き来します。
 101:3 卑しいことを目の前に置かず 背く者の行いを憎み まつわりつくことを許さず
 101:4 曲がった心を退け 悪を知ることはありません。
 101:5 隠れて友をそしる者を滅ぼし 傲慢な目、驕る心を持つ者を許しません。
 101:6 わたしはこの地の信頼のおける人々に目を留め わたしと共に座に着かせ 完全な道を歩く人を、わたしに仕えさせます。
 101:7 わたしの家においては 人を欺く者を座に着かせず 偽って語る者をわたしの目の前に立たせません。
 101:8 朝ごとに、わたしはこの地の逆らう者を滅ぼし 悪を行う者をことごとく、主の都から断ちます。

1テモテ 4:6 これらのことを兄弟たちに教えるならば、あなたは、信仰の言葉とあなたが守ってきた善い教えの言葉とに養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります。
 4:7 俗悪で愚にもつかない作り話は退けなさい。信心のために自分を鍛えなさい。
 4:8 体の鍛練も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです。
 4:9 この言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。
 4:10 わたしたちが労苦し、奮闘するのは、すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望を置いているからです。
 4:11 これらのことを命じ、教えなさい。
 4:12 あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。
 4:13 わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。
 4:14 あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。
 4:15 これらのことに努めなさい。そこから離れてはなりません。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。
 4:16 自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。

 

 

 

テモテの手紙の箇所には、体の鍛錬も役に立つが、それよりも、信心のために自分を鍛えるようにと勧められている。

信心をトレーニングするということであろうが、それはどうすれば良いのだろうか。

そもそも、信心というのは、鍛えられたり、強められたりするものなのだろうか。

テモテの手紙に記されていることは、神に希望を置きつつ、労苦し、奮闘する、といったことや、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で人々の模範になるように、といったことが語られているが、それらは、信心があるから可能なことであろう。

あるいは、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさいといった勧めは、聖書に精通した一部の人にしかできないようなことにも思える。

しかし、そういった人たちも、最初から様々なことができたわけではないだろう。

御言葉に従って忠実に生きて行こうと、それを続けてきたからこそ、信心も養われてきたのではないだろうか。

つまり、継続すること、それしかない。

信仰をたずさえて、そこから離れることなく、なにがあろうと、何が起きようと、神に信頼して生きようとしていれば、自ずと、信心も養われ、鍛えられ、強められていくのであろう。

何ができなくてもいい。

まずは続けていく事を大切にしたい。

それが神と共に生きることでもあるのだから。