列王記下17章24~41節、詩篇101篇、1テモテ3章14節~4章5節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

列王記下 17:24 アッシリアの王はバビロン、クト、アワ、ハマト、セファルワイムの人々を連れて来て、イスラエルの人々に代えてサマリアの住民とした。この人々がサマリアを占拠し、その町々に住むことになった。
 17:25 彼らはそこに住み始めたころ、主を畏れ敬う者ではなかったので、主は彼らの中に獅子を送り込まれ、獅子は彼らの何人かを殺した。
 17:26 彼らはアッシリアの王にこう告げた。「あなたがサマリアの町々に移り住ませた諸国の民は、この地の神の掟を知りません。彼らがこの地の神の掟を知らないので、神は彼らの中に獅子を送り込み、獅子は彼らを殺しています。」
 17:27 アッシリアの王は命じた。「お前たちが連れ去った祭司の一人をそこに行かせよ。その祭司がそこに行って住み、その地の神の掟を教えさせよ。」
 17:28 こうして、サマリアから連れ去られた祭司が一人戻って来てベテルに住み、どのように主を畏れ敬わなければならないかを教えた。
 17:29 しかし、諸国の民はそれぞれ自分の神を造り、サマリア人の築いた聖なる高台の家に安置した。諸国の民はそれぞれ自分たちの住む町でそのように行った。
 17:30 バビロンの人々はスコト・ベノトの神を造り、クトの人々はネレガルの神を造り、ハマトの人々はアシマの神を造り、
 17:31 アワ人はニブハズとタルタクの神を造り、セファルワイム人は子供を火に投じて、セファルワイムの神々アドラメレクとアナメレクにささげた。
 17:32 彼らは主を畏れ敬ったが、自分たちの中から聖なる高台の祭司たちを立て、その祭司たちが聖なる高台の家で彼らのために勤めを果たした。
 17:33 このように彼らは主を畏れ敬うとともに、移される前にいた国々の風習に従って自分たちの神々にも仕えた。
 17:34 彼らは今日に至るまで以前からの風習に従って行い、主を畏れ敬うことなく、主がイスラエルという名をお付けになったヤコブの子孫に授けられた掟、法、律法、戒めに従って行うこともない。
 17:35 主は彼らと契約を結び、こう戒められた。「他の神々を畏れ敬ってはならない。これにひれ伏すことも、仕えることも、いけにえをささげることもあってはならない。
 17:36 大いなる力と伸ばした腕をもってあなたたちをエジプトの地から導き上った主にのみ畏れを抱き、その前にひれ伏し、いけにえをささげよ。
 17:37 主があなたたちのために記された掟と法と律法と戒めを、常に実行するように努めよ。他の神々を畏れ敬ってはならない。
 17:38 わたしがあなたたちと結んだ契約を忘れてはならない。他の神々を畏れ敬ってはならない。
 17:39 あなたたちの神、主にのみ畏れを抱け。そうすれば、主はすべての敵の手からあなたたちを救い出してくださる。」
 17:40 しかし、彼らは聞き従わず、ただ以前からの風習に従って行うばかりであった。
 17:41 このように、これらの民は主を畏れ敬うとともに、自分たちの偶像にも仕えていた。その子も孫も今日に至るまで先祖が行ったように行っている。

詩篇 101:1  ダビデの詩。賛歌。 慈しみと裁きをわたしは歌い 主よ、あなたに向かって、ほめ歌います。
 101:2 完全な道について解き明かします。いつ、あなたは わたしを訪れてくださるのでしょうか。わたしは家にあって 無垢な心をもって行き来します。
 101:3 卑しいことを目の前に置かず 背く者の行いを憎み まつわりつくことを許さず
 101:4 曲がった心を退け 悪を知ることはありません。
 101:5 隠れて友をそしる者を滅ぼし 傲慢な目、驕る心を持つ者を許しません。
 101:6 わたしはこの地の信頼のおける人々に目を留め わたしと共に座に着かせ 完全な道を歩く人を、わたしに仕えさせます。
 101:7 わたしの家においては 人を欺く者を座に着かせず 偽って語る者をわたしの目の前に立たせません。
 101:8 朝ごとに、わたしはこの地の逆らう者を滅ぼし 悪を行う者をことごとく、主の都から断ちます。

1テモテ 3:14 わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。
 3:15 行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。
 3:16 信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、キリストは肉において現れ、"霊"において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。
 4:1 しかし、"霊"は次のように明確に告げておられます。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。
 4:2 このことは、偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるのです。彼らは自分の良心に焼き印を押されており、
 4:3 結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりします。しかし、この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。
 4:4 というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。
 4:5 神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです。

 

 

 

最近、ずっと教会にいらしている方が、キリスト教に興味を持たれ、山上の説教などのようなイエス様の教えに習い、従って生きることを願っておられるようなことを話しておられた。

キリスト教に関心を持っていただくことは嬉しいことではあるが、イエス様はあくまで律法の教師のような存在として考えているようで、イエス様の教えに学びたいということのようである。

たしかにそれも大切なことではあるが、キリスト教というのは、単にイエス様が教えられた愛を実践していくだけではなく、イエス様そのものがどういうお方であり、私たちのために何をして下さったのかということを知ることのほうが大切である。

イエス様は、人としてこの世界に現れた、まことの神ご自身であり、そのまことの神であられるお方が、人間を救うために御自分の命を贖いの代価として十字架で死なれることによって捧げて下さり、しかも、死を打ち破って復活され、永遠の命に与ることができるようにして下さったお方である。

わたしたちは、イエス様が私たちのためにこのような救いの御業を成し遂げて下さったことを信じることによって救いの恵みにあずかることができるのであり、このような救いの約束を教えているのがキリスト教なのである。

もちろん、救われた者として、できるだけ神の求めておられるような愛の業を、一人一人ができる限り実践していくことも大切なことではあるが、仮にそういった愛の業ができなかったとしても、神の救いの約束が変わるわけではない。

大切な事は、神の救いの約束に信頼して生きることによる慰めと平安を頂いて生きること、である。