エゼキエル20章33~44節、詩篇109篇21~31節、ルカ6章6~11節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エゼキエル 20:33 わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは必ず、強い手と伸ばした腕と、溢れる憤りをもって、お前たちを治める。
 20:34 強い手と伸ばした腕と、溢れる憤りをもって、わたしはお前たちを諸国の民の中から連れ出し、散らされた国々から集める。
 20:35 わたしはお前たちを、諸国の民の荒れ野に導き、顔と顔を合わせてお前たちを裁く。
 20:36 お前たちの父祖をエジプトの国の荒れ野で裁いたように裁く、と主なる神は言われる。
 20:37 わたしは、お前たちを牧者の杖の下を通らせて、契約のきずなのもとに導く。
 20:38 わたしはお前たちの中から、わたしに逆らい、背く者を分離する。わたしは、彼らを寄留の地から連れ出すが、彼らはイスラエルの土地に入ることはできない。そのとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。
 20:39 お前たちイスラエルの家よ、主なる神はこう言われる。おのおの自分の偶像のもとに行き、それに仕えよ。その後、お前たちは必ずわたしに聞き従い、二度と偶像に贈り物をささげて、わたしの聖なる名を汚すことはなくなる。
 20:40 わたしの聖なる山、イスラエルの高い山で、と主なる神は言われる。そこにおいてのみ、この地にいるイスラエルの家はすべて、こぞってわたしに仕える。そこでのみ、わたしは彼らを受け入れ、その所で、献げ物と聖なる最上の供え物を求める。
 20:41 わたしは、宥めの香りと共に、お前たちを受け入れる。わたしが諸国の民の中から連れ出し、散らされていた国々から集めるとき、わたしは諸国民の前で、お前たちに自分を聖なる者として示す。
 20:42 わたしが、先祖に与えると誓った地、イスラエルの土地に導き入れるとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。
 20:43 その所で、お前たちは自分の歩んだ道、自分を汚したすべての行いを思い起こし、自分の行ったあらゆる悪のゆえに自分を嫌悪するようになる。
 20:44 お前たちの悪い道や堕落した行いによることなく、わが名のゆえに、わたしが働きかけるとき、イスラエルの家よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」と主なる神は言われる。

詩篇 109:21 主よ、わたしの神よ 御名のために、わたしに計らい 恵み深く、慈しみによって わたしを助けてください。
 109:22 わたしは貧しく乏しいのです。胸の奥で心は貫かれています。
 109:23 移ろい行く影のようにわたしは去ります。いなごのように払い落とされます。
 109:24 断食して膝は弱くなり からだは脂肪を失い、衰えて行きます。
 109:25 わたしは人間の恥。彼らはわたしを見て頭を振ります。
 109:26 わたしの神、主よ、わたしを助けてください。慈しみによってお救いください。
 109:27 それが御手によることを、御計らいであることを 主よ、人々は知るでしょう。
 109:28 彼らは呪いますが あなたは祝福してくださいます。彼らは反逆し、恥に落とされますが あなたの僕は喜び祝います。
 109:29 わたしに敵意を抱く者は辱めを衣とし 恥を上着としてまとうでしょう。
 109:30 わたしはこの口をもって 主に尽きぬ感謝をささげ 多くの人の中で主を賛美します。
 109:31 主は乏しい人の右に立ち 死に定める裁きから救ってくださいます。

ルカ 6:6 また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。
 6:7 律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。
 6:8 イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。
 6:9 そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」
 6:10 そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。
 6:11 ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。

 

 

 

律法学者やファリサイ派の人たちは、イエス様を訴える口実を見つけようと、イエス様の行動を監視していたことに対し、あえて手の萎えた人を癒され、「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」と尋ねられた。

イエス様は、安息日の本来の目的である、人が心も体も安心して過ごすことができるように、人々の悩みを取り除いて行かれたのである。

一方の律法学者やファリサイ派の人たちは、自らの義を誇る目的のために、他者を監視し、裁き、人々を不安にさせることを行っていたと言えよう。

非常に対照的である。

実にそれが人間の罪の姿の代表的なものと言えよう。

自己を正当化するため、他者を裁き、命を損なうようなことをしてしまうのである。

もちろん、だからこそ、イエス様はそのような陳深い人間を救うために人としてこの世に来られ、十字架にかかられることによって、全ての人間の罪を赦そうとなさったのである。

この救いの出来事は、ただただ深い神の憐れみによるものであり、まさに、手の萎えた人をお癒しになられたイエス様の憐れみ深い心にもそれがよく表れている。

私たちもまた、神の憐れみのゆえに、罪赦され、癒され、そして平安のうちに生かして下さる。

イエス様はそのために来られた救い主であることを覚えたい。