エレミヤ 3:15 わたしはあなたたちに、心にかなう牧者たちを与える。彼らは賢く、巧みに導く。
3:16 あなたたちがこの地で大いに増えるとき、その日には、と主は言われる。人々はもはや、主の契約の箱について語らず、心に浮かべることも、思い起こすこともない。求めることも、作ることももはやない。
3:17 その時、エルサレムは主の王座と呼ばれ、諸国の民は皆、そこに向かい、主の御名のもとにエルサレムに集まる。彼らは再び、かたくなで悪い心に従って歩むことをしない。
3:18 その日、ユダの家はイスラエルの家と合流し、わたしがあなたたちの先祖の所有とした国へ、北の国から共に帰って来る。
詩篇 140:1 指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
140:2 主よ、さいなむ者からわたしを助け出し 不法の者から救い出してください。
140:3 彼らは心に悪事を謀り 絶え間なく戦いを挑んできます。
140:4 舌を蛇のように鋭くし 蝮の毒を唇に含んでいます。
140:5 主よ、主に逆らう者の手からわたしを守り 不法の者から救い出してください わたしの歩みを突き落とそうと謀っている者から。
140:6 傲慢な者がわたしに罠を仕掛け 綱や網を張りめぐらし わたしの行く道に落とし穴を掘っています。
140:7 主にわたしは申します 「あなたはわたしの神」と。主よ、嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。
140:8 主よ、わたしの神よ、救いの力よ わたしが武器を執る日 先頭に立ってわたしを守ってください。
140:9 主よ 主に逆らう者に欲望を満たすことを許さず たくらみを遂げさせず 誇ることを許さないでください。
140:10 わたしを包囲する者は 自分の唇の毒を頭にかぶるがよい。
140:11 火の雨がその上に降り注ぎ 泥沼に沈められ 再び立ち上がることのないように。
140:12 舌を操る者はこの地に固く立つことなく 不法の者は災いに捕えられ 追い立てられるがよい。
140:13 わたしは知っています 主は必ず、貧しい人の訴えを取り上げ 乏しい人のために裁きをしてくださることを。
140:14 主に従う人は御名に感謝をささげ 正しい人は 御前に座ることができるでしょう。
エフェソ 5:6 むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。
5:7 だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。
5:8 あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。
5:9 ――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――
5:10 何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。
5:11 実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。
5:12 彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。
5:13 しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。
5:14 明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」
5:15 愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。
5:16 時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。
5:17 だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。
5:18 酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、
5:19 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。
5:20 そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。
光に照らされて、光の子らしく生きる、ということは、全てが明るみにされ、隠し事なく生きる、ということであろう。
もちろん、隠し事なく、全てをさらけ出して生きるのは、とても恥ずかしく、勇気のいることであろう。
しかし、もしそれができるなら、これほど平安なこともない。
隠し事がないために、恐れる必要がないからである。
あとは、己の弱さ、醜さ、愚かさなどについて、どう処理できるかにかかってくるが、それら全てのことに対して、イエス様の十字架の贖いによって赦され、あたかも罪のない者のように神に受け入れられていることを知ったなら、もはや何の恐れも不安もなく過ごすことができるだろう。
光の子らしく生きるとは、そういうことではないだろうか。
何も、清らかで、愛に満ち、誰にも誇れるような立派な生き方ができていなくても、何の恐れも不安もなく、平安のうちに生きていられるのなら、それで十分ではないだろうか。
様々な不安や恐れから解放された人というのは、心にも余裕ができてくるため、案外、愛の行いや善き業などを行う事ができるようになるのかもしれない。
それゆえ、まずはイエス様の十字架の贖いのゆえに、全てを赦され、神に受け入れられているものとされていることを覚えよう。
光に照らされていれば、自ずと光の子「らしく」生きられるようになっていくことであろう。