イザヤ56章9~12節、詩篇22篇20~29節、ローマ2章17~29節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ 56:9 野のすべての獣よ、森のすべての獣よ 食べに来るがよい。
 56:10 見張りはだれも、見る力がなく、何も知らない。口を閉ざされた犬で、ほえることができない。伏してうたたねし、眠ることを愛する。
 56:11 この犬どもは強欲で飽くことを知らない。彼らは羊飼いでありながらそれを自覚せず それぞれ自分の好む道に向かい 自分の利益を追い求める者ばかりだ。
 56:12 「さあ、酒を手に入れよう。強い酒を浴びるように飲もう。明日も今日と同じこと。いや、もっとすばらしいにちがいない。」

詩篇 22:20 主よ、あなただけは わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ 今すぐにわたしを助けてください。
 22:21 わたしの魂を剣から救い出し わたしの身を犬どもから救い出してください。
 22:22 獅子の口、雄牛の角からわたしを救い わたしに答えてください。
 22:23 わたしは兄弟たちに御名を語り伝え 集会の中であなたを賛美します。
 22:24 主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。
 22:25 主は貧しい人の苦しみを 決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく 助けを求める叫びを聞いてくださいます。
 22:26 それゆえ、わたしは大いなる集会で あなたに賛美をささげ 神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。
 22:27 貧しい人は食べて満ち足り 主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。
 22:28 地の果てまで すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り 国々の民が御前にひれ伏しますように。
 22:29 王権は主にあり、主は国々を治められます。

ローマ 2:17 ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、
 2:18 その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。
 2:19 -20また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。
 2:21 それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。
 2:22 「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。
 2:23 あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。
 2:24 「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。
 2:25 あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。
 2:26 だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。
 2:27 そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。
 2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。
 2:29 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく"霊"によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。

 

 

 

 

新約聖書の時代のイスラエルの人たちにおいて、特に律法学者やファリサイ派の人たちというのは、自分たちが一番神の教えや言い伝えを守り、正しい人間であると自負していたようである。

しかし、彼らの生き方というのは、律法の本質的な目的を見失い、ただ細かいルールをどれだけ守っているかということを他者に対して誇るために行っていたものであり、律法の戒めを守れない者たちを見下していたため、「神を愛し、隣人を愛しなさい」との律法の本質的な戒めからは遠くかけ離れた異質なものとなってしまっていた、と言えるのである。

律法には、確かに十戒を代表するような戒めの言葉は存在しているが、それらの戒めの全ては「神を愛し、隣人を愛する」ために語られているものである。

そこを見失ってはならないし、本質とはまるで反対の方向へ向かっているような律法の守り方というものは、本来ありえないはずであろう。

律法以外にも、この世には様々なルールがある。

しかし、案外、何のためにそういったルールが定められたのか、その本質を忘れ、ただ、厳密に運用することだけが独り歩きし、人々をただ縛り付けるだけのルールと化しているものは、意外に多いのではないだろうか。

いや、ルール自体が悪いのではない。

そのルールを運用する人間が、自分勝手に解釈したり、自己都合を優先して解釈しようとするところに問題があるのだろう。

律法の言葉が何のためにあるのか、その本質を見失わないでいたい。

 

ガラテヤ3:21 それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。
3:22 しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。
3:23 信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。
3:24 こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。
3:25 しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。
3:26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。