使徒1章1~11節、エフェソ1章15~23節、ルカ24章44~53節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

使徒 1:1 -2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。
 1:3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。
 1:4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。
 1:5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
 1:6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。
 1:7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
 1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
 1:9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
 1:10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、
 1:11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

 

エフェソ 1:15 こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、
 1:16 祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。
 1:17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、
 1:18 心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。
 1:19 また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。
 1:20 神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、
 1:21 すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。
 1:22 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。
 1:23 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。

 

ルカ 24:44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
 24:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、
 24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
 24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
 24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。
 24:49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
 24:50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。
 24:51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
 24:52 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、
 24:53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

 

 

 

 

 

使徒言行録の冒頭の箇所には、この書を書いた人物が、テオフィロに宛てて記した第一巻(ルカ福音書)において、イエス様が行い、教え始めてから、使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのことについて書き記したということが書かれていて、その後、イエス様が約束されていたように、弟子たちの上に聖霊が降ると、彼らは力を受け、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまでキリストの証人となる、といったことを、続編とも言える第二巻として使徒言行録という形で書き記したことが伺えるのである。

つまり、使徒言行録では、イエス様が天に昇られ、聖霊が降ってから以降、聖霊に満たされた人たちが全世界に救いのメッセージである福音を宣べ伝えていく時代について語られている、ということである。

しかし、実は、その時代は今もなお続いている。

聖霊が降って以降、神を信じる者たちの群れが教会となり、教会がキリストのからだとして、キリストの十字架と復活による救いの約束を宣べ伝えていく場となっており、そういう意味では、使徒言行録は「終わっていない」のであり、今なお「続いている」のである。

エフェソ書の箇所には、「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれ」「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」と語られている、

イエス様が天に昇り、神の右に座しておられる事によって、すべての教会の頭として、神の偉大な権能を教会に託して下さっている。

それは、キリストの御名において罪の赦しと救いの言葉を宣言していくことにある。

教会は、この権能を用いて、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、といったことを全ての人に宣べ伝えていくために召されている。

なんとも幸いなことではないか。

私たちは、今、このような幸いな時代に生かされているということを覚えたいものである。