出エジプト記33章12~17節、詩篇97篇、黙示録22章6~9節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

出エジプト記 33:12 モーセは主に言った。「あなたはわたしに、『この民を率いて上れ』と言われました。しかし、わたしと共に遣わされる者をお示しになりません。あなたは、また、『わたしはあなたを名指しで選んだ。わたしはあなたに好意を示す』と言われました。
 33:13 お願いです。もしあなたがわたしに御好意を示してくださるのでしたら、どうか今、あなたの道をお示しください。そうすれば、わたしはどのようにして、あなたがわたしに御好意を示してくださるか知りうるでしょう。どうか、この国民があなたの民であることも目にお留めください。」
 33:14 主が、「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」と言われると、
 33:15 モーセは主に言った。「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。
 33:16 一体何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。そうすれば、わたしとあなたの民は、地上のすべての民と異なる特別なものとなるでしょう。」
 33:17 主はモーセに言われた。「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである。」

 

詩篇 97:1 主こそ王。全地よ、喜び躍れ。多くの島々よ、喜び祝え。
 97:2 密雲と濃霧が主の周りに立ちこめ 正しい裁きが王座の基をなす。
 97:3 火は御前を進み 周りの敵を焼き滅ぼす。
 97:4 稲妻は世界を照らし出し 地はそれを見て、身もだえし
 97:5 山々は蝋のように溶ける 主の御前に、全地の主の御前に。
 97:6 天は主の正しさを告げ知らせ すべての民はその栄光を仰ぎ見る。
 97:7 すべて、偶像に仕える者 むなしい神々を誇りとする者は恥を受ける。神々はすべて、主に向かってひれ伏す。
 97:8 シオンは聞いて喜び祝い ユダのおとめらは喜び躍る 主よ、あなたの裁きのゆえに。
 97:9 あなたは主、全地に君臨されるいと高き神。神々のすべてを超え、あがめられる神。
 97:10 主を愛する人は悪を憎む。主の慈しみに生きる人の魂を主は守り 神に逆らう者の手から助け出してくださる。
 97:11 神に従う人のためには光を 心のまっすぐな人のためには喜びを 種蒔いてくださる。
 97:12 神に従う人よ、主にあって喜び祝え。聖なる御名に感謝をささげよ。

 

黙示録 22:6 そして、天使はわたしにこう言った。「これらの言葉は、信頼でき、また真実である。預言者たちの霊感の神、主が、その天使を送って、すぐにも起こるはずのことを、御自分の僕たちに示されたのである。
 22:7 見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである。」
 22:8 わたしは、これらのことを聞き、また見たヨハネである。聞き、また見たとき、わたしは、このことを示してくれた天使の足もとにひれ伏して、拝もうとした。
 22:9 すると、天使はわたしに言った。「やめよ。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書物の言葉を守っている人たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。」

 

 

 

 

 

主なる神様は、ご自分を信じて従ってくるものを祝福されるお方である。

当然と言えば当然のことなのかもしれないが、恵みと憐れみに満ちた神であられるとはいえ、人間の方で心を頑なにして信じようとしない者のところでは、何もできないどころか、逆に災いとなることもあるのだろう。

神様が与えて下さる救いの恵みも、プレゼントのようなものであり、人間が手を広げて受け取ろうとしなければ、救いの恵みにあずかることはできない。

というより、救いの約束を、自ら拒むような人に与えたところで、何の意味もないからである。

ただ、救いの約束というのは、それが約束の言葉を通して与えられるものであるために、信じることが難しいという面もあるだろう。

人によっては、その証拠や証明されるものがなければ信じないと言う人もいるだろう。

けれど、約束された言葉を信じるという行為は、人が人として人と共に生きていく上で、とても大切なことである。

人が神を信頼し、神との人格的な交わりをもっている時に、人ははじめて本当の意味で「生きている」といえるのだろう。

信頼のないところに、命は成り立たないからである。

主なる神様は、自らの命を十字架に捧げて、私たちに対する無限の愛を示して下さっている。

それを信じるかどうかは私たち次第であるが、信じるならば、無限の愛による無限の祝福を頂けるのである。

ならば私は信じたい。