ルカ 6:1 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。
6:2 ファリサイ派のある人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言った。
6:3 イエスはお答えになった。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。
6:4 神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」
6:5 そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」
断食は、そもそも己の罪を悔い改めるための手段として行われてきたものであろう。
しかし、イエス様の時代には、手段だけが目的化し、断食することだけが強いられ、その趣旨が見失われていたのであろう。
つまり、どれだけ断食したかが重要であって、いわば、見かけ上だけの行いと化していたのであろう。
安息日も、何をすべきか、すべきでないか重要なのではなく、食べようが食べまいが、主を畏れ、敬い、感謝して過ごすことが重要なのであろう。
見た目だけに囚われるのではなく、心を主に捧げていきたいものである。