1コリント5章1~8節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

1コリント5:1 現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。
5:2 それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。
5:3 わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。
5:4 つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、
5:5 このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。
5:6 あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。
5:7 いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。
5:8 だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。

コリントの町には、多くの不道徳がはびこっていて、教会の中にさえ、そのような輩がいたであろうことが推測される。
けれど、教会すなわちクリスチャンと言えど、もともと罪人、ただ主イエス・キリストの十字架の贖いによって罪赦された人たちであるということだけである。
そう考えるなら、今なお罪の中に歩んでいる人たちも、キリストの十字架の贖いによって罪赦され、救われていることを受け入れるならば、彼らもまた、一人のクリスチャンとなるのである。
クリスチャンとは、どれだけ清い生き方を送っているかではなく、どなたの犠牲によって罪を赦されたかを知っている人である。
もっとも、どれほどの大きな犠牲によって罪赦されたかを知って、それでも罪を犯し続けることは、イエス様に対しての背反行為であるから、そうならないように心がけていくことには変わりない。
完全ではないかもしれないけれども、少なくとも、イエス様を悲しませるような生き方はするまいと心に誓って生きて行こうとするだろう。
それがここで語られているような「純粋な真実のパン」としての生き方に通じるものではないだろうか。