マタイ22:23 その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。
22:24 「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
22:25 さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。
22:26 次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。
22:27 最後にその女も死にました。
22:28 すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」
22:29 イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。
22:30 復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
22:31 死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。
22:32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
22:33 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。
古来からのイスラエルの思想と、伝統的な日本的な「家」思想とは似ているところがあるように思う。
家を継ぐなど、個人よりも代々受け継がれる先祖の「名」を絶やさぬことが子孫繁栄に結びつくと考えるのであろう。
しかし、それは考え方によっては、子供は自分のコピーであって、子孫が続くことによって自分の生きた証が永遠に残るという、ある意味、エゴな考え方にも見えなくない。
子孫が繁栄していくことは幸いなことだが、それを先祖の側から押し付けるような仕方では、子孫は本当の意味での幸いとは感じられないのかもしれない。
日本の社会の中でキリスト教信仰を受け入れていくことは、なかなか難しいし、常に先祖に関する事柄が問題となってくる。
しかし、キリスト教とて、先祖をおろそかにしているわけではない。
ただ、それと自分の救いとはまた別の問題である。
もし仮に、先祖の扱いをおろそかにしたと言って、先祖が子孫に祟るなどということがあるとするなら、それこそ、そのような先祖を大切に思うことにどういう意味があるのだろう。
先祖は子孫を可愛がってくれるはずだし、子孫には幸せになって欲しいと心から願うはずであろう。
だから、私は私で、私にとって何が一番幸いかということを考える。
決して先祖をないがしろにするのではなく、私が一番喜んで平安で生きることをきっと先祖も願うはずだから。
だから私はキリストを信じる。キリストによる完全な救いの約束を頂いて、平安のうちに生きて行くのである。