マタイ22:41 ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。
22:42 「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」彼らが、「ダビデの子です」と言うと、
22:43 イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。
22:44 『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』
22:45 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
22:46 これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。
子は親にとって宝物のようなもので、いつまでたっても可愛いもの。
そして、いつまでも子ども扱いし、心配してしまう。
もちろん、子を心配するのは親の務めのようなもので、心配するなと言っても心配してしまうものである。
ただ、いつまでも子供だと思っていても、子は親が思うように、いつまでも子供ではない。
むしろ成長してもらわないと困るはずである。
そして、いつの日か、親は衰え、子は親よりもりっぱに成長していくのである。
子は常に親より劣ったものという考えに囚われていると、大切なことを見失ってしまうこともある。
「メシアがダビデの子として生まれる」というのも、キリストがダビデの子孫の中に人として生まれるという事実を述べたものに過ぎず、ダビデより劣った存在であるという意味ではない。
むしろ、ダビデと同じように肉の弱さを持った人としてキリストは来られたと言うこと。
ただ、罪は犯されなかったが、私たちと何ら変わらない人間の姿で世に来られ、そして、あの痛々しい十字架の死を経験されたのである。
全ては、我々弱い人間を救うためである。
私たちはこの方のおかげで、救われる。
だから、我々はダビデと同じように、メシアなるキリストを、私の主、真の救い主として崇めるのである。