ヨエル2章12~18節、2コリント5章20節~6章2節、マタイ6章1~6節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

マタイ6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
6:2 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
6:4 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

私たちの主であり師であるイエス・キリストが、「悔い改めよ…」(マタイ4・17)と言われたとき、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。
このことばが秘跡としての悔悛(すなわち、司祭の職によって執行される告解と償罪)についてのものであると解することはできない。
しかし、それは単に内的な悔い改めだけをさしてはいない。否むしろ、外側で働いて肉を種々に殺すことをしないものであるなら、内的な悔い改めはおよそ無に等しい。
そのため、自己憎悪(すなわち、肉における真の悔い改め)のつづく間は、すなわち、天国にはいるまでは、罰はつづくものである。
マルティン・ルター「贖宥の効力を明らかにするための討論(九十五個条の提題)より

聖書における悔い改めは、まず、自分がいかに罪深いかを知り、それを認めることである。
そして、その罪の最も大きなものは、神を畏れ信じないことである。
それゆえ、その罪を悔い改めるということは、自分の犯している罪を償うことのできる唯一の方法である、イエス・キリストの十字架による贖いを自分の罪のためになされた出来事であるということを信じることである。
すなわち、神のもとに立ち返ること。
そこにしか我々の罪を許してもらえる道はない。
だから、ただ、悪い行いを改めて、善なる行いをすることだけでは不十分なのである。
私のために十字架でしなれたイエス様のみもとに立ち返り、「この方の十字架の犠牲は、私の罪のために支払われたのだ」ということを認めることである。