2コリント11章7~15節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

2コリント11:7 それとも、あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか。
11:8 わたしは、他の諸教会からかすめ取るようにしてまでも、あなたがたに奉仕するための生活費を手に入れました。
11:9 あなたがたのもとで生活に不自由したとき、だれにも負担をかけませんでした。マケドニア州から来た兄弟たちが、わたしの必要を満たしてくれたからです。そして、わたしは何事においてもあなたがたに負担をかけないようにしてきたし、これからもそうするつもりです。
11:10 わたしの内にあるキリストの真実にかけて言います。このようにわたしが誇るのを、アカイア地方で妨げられることは決してありません。
11:11 なぜだろうか。わたしがあなたがたを愛していないからだろうか。神がご存じです。
11:12 わたしは今していることを今後も続けるつもりです。それは、わたしたちと同様に誇れるようにと機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切るためです。
11:13 こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。
11:14 だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。
11:15 だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。

宣教の働きを続けていくためには、多くの犠牲を伴うもの。
コリントの教会の宣教のためにも、パウロは自らも犠牲を払っていたし、パウロを支援する他の諸教会のクリスチャンたちも、パウロと共に多くの犠牲を支払っていたのである。

そして、このことは、コリントの教会だけのことにとどまらず、全ての教会、全てのクリスチャンにとって同じことが言えるのではないだろうか。
一体、私の魂が救われるために、どれほどの犠牲が支払われてきたことであろうか。
きっと、多くのクリスチャンたちが、名前も顔も知らない遠くの国の人の救いのために、喜んで犠牲を支払ってきてくれたのだろう。

しかし、その人たちもまた、誰かの犠牲によって救われた人たちである。
そして、ずっとずっと昔、パウロの活動していた頃のクリスチャンたち、さらにもとをたどれば、イエス様の十字架にたどり着く。

そう、イエス様の尊い十字架の犠牲が全ての出発点なのだ。

そういう意味で、この犠牲の連鎖、祝福の連鎖を私のところでとどめてはならない。
次の方の救いのために、今日犠牲を支払っていこうではないか。