1テモテ3章1b~7節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

1テモテ3:1 「監督の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる。」
3:2 だから、監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。
3:3 また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、
3:4 自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。
3:5 自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。
3:6 監督は、信仰に入って間もない人ではいけません。それでは高慢になって悪魔と同じ裁きを受けかねないからです。
3:7 更に、監督は、教会以外の人々からも良い評判を得ている人でなければなりません。そうでなければ、中傷され、悪魔の罠に陥りかねないからです。

ここで語られている監督とは、もちろん、教会の群れを監督する立場の者のことであり、牧師の務めがそれにあたるであろう。
そして、そういう働きに就く者は、自分の家庭をも良く治めることができている者でなければならないと語られている。
つまり、教会と家庭というのは、本質的に良く似ているということなのだろう。

時々「家庭的な教会」という表現を聞くことがある。
これは、最高のほめ言葉なのかもしれない。
ならば牧師も家庭的であるべきであり「家庭的な牧師」という表現が最高のほめ言葉なのかもしれない。
しかし、単に家族を愛し、家族と共に過ごすだけでは真の「家庭的」とは言えないかもしれない。単に子煩悩で、家庭にべったり埋没しているのだけとは違う。
子どもたちをよく治め、尊敬と信頼の対象であり、家庭における権威を持っていること。家庭のみならず、地域においても尊敬の対象である事など、社会的にも整えられた者でなければならないだろう。
というのも、教会も家庭の枠を超えた小さな社会の一つでもあるからである。
つまり、教会の群れを治める者は、自分の家庭は当然のこと、教会という群れをも治める事ができるということが求められるということである。

まずは自分の家庭から大切に取り扱っていけるように努めたい。