エゼキエル34:7 それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。
34:8 わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。
34:9 それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。
34:10 主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。
34:11 まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。
34:12 牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。
34:13 わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。
34:14 わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。
34:15 わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。
34:16 わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。
主なる神様は、牧者と称し、その実情は私腹を肥やすためだけに働いているような者たちを一蹴し、ご自身自らがイスラエルの民を牧すようになるとおおせられている。
しかも、それは、羊が一人の羊飼いのもとに一箇所に集められるようなものではなく、ある者は山々で、ある者は谷間、ある者は居住地でとあるように、それぞれ、彼の土地において養うというのだ。
もちろん、それでいて、一人の主、一つの群れである。
そういう意味では、ここに、幸いな教会の姿が描かれていると言えるのではないだろうか。
主は失われた者を尋ね求め、追われた者を連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする、と語られている。
(マタイ10章6節、15章24節、マルコ2章17節、ルカ19章10節など参照)
イエス様がどういう意図で教会をお立てになったか、常に思い出しながら、教会の働きに携わらせていただきたいと願う。