ヨハネ7:32 ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。
7:33 そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。
7:34 あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」
7:35 すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。
7:36 『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」
イエス様が「わたしのいる所にあなたたちは来ることができない」と仰せられたのは、私たちが神に御許に行く事ができないということではない。
むしろ、イエス様はそのことを願っておられる。
では、このことは何を意味するのか。
それは、イエス様の十字架の贖いの御業を表している。
イエス様が苦しまれたのは、私たちの身代わりとして、私たちにはできない罪の償いをお引き受けしようとなされたからである。
そして、イエス様は十字架の上で息を引き取り、死んで、墓に葬られた。
このような御業は、あなたたちにはできないということなのだ。
ローマ10:6 しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。
10:7 また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。
10:8 では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
イエス様が私たちのために十字架で死なれ、私たちのために天に昇られたのは、このことを信じる私たちが、もはや自分の手で自分の罪の償いをし、自分の力で天の御国へあがるのではなく、イエス様の成し遂げられた御業の故に、救われるという「信仰による義」を得るためなのである。
私たちはこの信仰よって、神の御許に行く事ができるのである。