ヨハネ7:25 さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。
7:26 あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。
7:27 しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」
7:28 すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。
7:29 わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」
7:30 人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。
7:31 しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。
エルサレムの人たちは、イエス様がナザレの村の大工ヨセフの息子であったということを知っていて、そのような者が、どうしてメシアであろうはずがないと考えていたのであろう。
もちろん、聖書の預言の言葉を丁寧に紐解いていけば、メシアと呼ばれる方がナザレの村と関係があることはわかるはずである。
しかし、エルサレムに住む者たちにとっては、エルサレムこそ、神の祝福された町であり、あの偉大なダビデ王の町であり、ここから、ダビデ王以来の王(メシア)の出現を期待していたのかもしれない。
それよりも、単に、エルサレムに住んでいるというだけで、地方の村村のことを軽蔑していただけなのかもしれない。
都市と地方の格差や偏見は、今の世にも普通に見られるものである。
人の目に、見過ごしにされてしまうような所に、神は現れるのかもしれない。
信仰の目を持って、神の御業がどこに現れるのか、さびしい所も丁寧に見つめていかなければ、と思う。