ルカ11:29 群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。
11:30 つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。
11:31 南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。
11:32 また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」
しるしとは、イエス様が本当に真の神の子救い主であられるかどうか、その証拠を示すための不思議な業のようなものであろう。
たとえば、治る見込みのない病人を癒したり、死者を復活させたり、通常の人間の業や常識ではありえない事柄を想定しているのであろう。
しかし、果たして、そのようなしるしは本当に必要なのだろうか。
聖書には、イエス様が確かに十字架で死なれ、復活されたということが語られており、これ以上ないほどの確かな「しるし」が行われているのである。
ならば、人々は一体何を求めているのか。
しるしを求めている人というのは、自分の身の上に不思議な業が起こらなければ信じようとしないということなのかもしれない。
しかし、その時とは、死を迎える時であり、まさに終わりの時なのだ。
そうなってからでは遅いのだ。
聖書には、イエス様が金持ちとラザロのたとえを語られているが、その中で金持ちが自分の兄弟がこんな苦しい所にこないように、ラザロを生き返らせて彼らの所に遣わして、主なる神を信じるように勧めてくれとイエス様に頼んだことが語られている。しかし、誰が読みがえっても、彼らは聞こうとしないだろうとイエス様は語られている。そしてその通り、イエス様はよみがえられたにも関わらず、多くの人たちは信じようとしない。
それは何故か。
あくまで自分の都合でのみ、神のしるしを受け入れようとしないからだ。
自分の願うとおりに病が癒され、自分の願うとおりに裕福にならなければ神を信じようとしないからなのだ。
しかし、そこに真の神を敬う心は存在しない。
自分の欲望が彼らの神なのだ。
つまり、しるしを見なければ神を信じないというのは、本来ありえないことなのだ。
そう思う時、神の唯一のしるしとしてのイエス様のご復活を、これこそが真のしるしであり、私の願う以前に、神ご自身が願われた救いの約束であることを覚え、信じ、受け留めたいものである。