ルカ10:13 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。
10:14 しかし、裁きの時には、お前たちよりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む。
10:15 また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。
10:16 あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」
イエス様は、ルカ10章1~12節の個所で、七十二人の弟子たちを宣教に遣わす際、もしあなたがたを受け入れようとしない人たちがいたら、そこでは、足の埃さえも払い落として、一切の関係を断ち切って、そこから立ち去るように語られています。
13節以下は、その続きとして語られたもので、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムに対する裁き、そして、弟子たちには、勇気を持って福音を宣べ伝え続けていくように励ましの言葉を投げかけていると言えるでしょう。
宣教の働きに携わることは、たいへん素晴らしい働きに召されることであります。
しかし、様々な問題に出くわすことも多く、私のような者でいいのだろうかと思うこともしばしば。
しかし、この御言葉に注目するとき、語る者の資質とか、性質が問われているのではなく、召された方が語られる言葉、つまり、宣教者が語り告げようとしている言葉が神の御言葉である限り、それが神の働きとなりうるのだということを覚えることができます。
あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。
言い換えれば、宣教の業に用いられる者は、それがどんなに小さな器であったとしても、神の御言葉を忠実に語り伝えている限り、イエス様の代理人であるということなのです。
つい「私のような者が」と思ってしまうことも多いのですが、語るのは私ではなく、主ご自身であるということを覚え、大胆に、しかも、畏れと信頼とを持って、聖書の御言葉を忠実に語りつづけていく働きに携わらせていただきたいと願うものです。