ローマ6:1 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。
6:2 ファリサイ派のある人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言った。
6:3 イエスはお答えになった。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。
6:4 神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」
6:5 そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」
ある聖日、礼拝の後で、婦人会のメンバーの方々が、礼拝に参加された方々にお茶やお菓子を出しておもてなしをしていました。
そこへ、ある教会員の方が、おもむろに台所に入り、自分だけコーヒーを入れ始めたのです。理由を聞くと「眠いから・・・」
当然、その人は身勝手な振る舞いを注意され、辺りは険悪なムードに。
その方は「ダビデだってひもじかったときに供えのパンを食べたじゃないの」と言い張っていましたが、そういう御言葉の引用の仕方は極めて身勝手な捉え方と言わざるをえません。
ここでのポイントは、イエス様が安息日の主であるということ。
安息日に働いておられるのは、我々人間ではなく、主なる神であるということ。
主なる神が、私たちのために命を投げ出して救いを完成し、その約束を、御言葉を通して私たちに与えて下さるということであると思います。
私たちは、聖書の御言葉を、自分のわがままの言い訳にしてはなりません。なぜなら、そのような行為は、自分が主であることを言い表しているようなものだからです。
私たちの主は、私たちの救いのために、ただ一人、十字架に命を投げ出すほどに愛して下さったイエス・キリストのみです。