ヘブル11:17 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。
11:18 この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。
11:19 アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。
11:20 信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。
11:21 信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。
11:22 信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。
先週の学び会で、「予言」と「預言」は違うという話をしました。
「予言」とは、読んで字のごとく、予め言うこと。未来に起こることを先んじて予測するという意味を含んでいると言えます。
一方、「預言」とは、言葉を預かるということですから、必ずしも未来のことについて予測することを意味せず、神様から託された言葉を語る、それが預言という言葉の意味であると言えるでしょう。
しかし、一方で、私たちの信仰とは、「望んでいる事柄を確認し、目に見えない事実を確認することである」と語られているように、いまだ手に入れていない事柄を既に与えられたかのように受け留めることにあります。どちらかと言うと、予言のほうに近いのかもしれません。しかし、神様の約束されたことを受け取ると考えるなら、預言という言葉と関連しているとも言えるでしょう。
いずれにしろ、旧約聖書に登場する信仰の父祖たちは、神様の約束にたいし、まったく信頼して「信仰によって」行動に移していったのです。
既に与えられた祝福に基づいてでもなく、目の前に見える事実に従ってでもなく、望んでいる事柄、目に見えない事実を信じることによって歩んでいきました。
そして彼らはそのような信仰の故に、神に祝福されたのです。
ですから、私たちも、信仰によって歩む者とならせて頂きたいと願います。
きっと神様が祝福して下さるでしょうから。