申命記25章5~20節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

申命記25:5 兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、
25:6 彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。
25:7 もし、その人が義理の姉妹をめとろうとしない場合、彼女は町の門に行って長老たちに訴えて、こう言うべきである。「わたしの義理の兄弟は、その兄弟の名をイスラエルの中に残すのを拒んで、わたしのために兄弟の義務を果たそうとしません。」
25:8 町の長老たちは彼を呼び出して、説得しなければならない。もし彼が、「わたしは彼女をめとりたくない」と言い張るならば、
25:9 義理の姉妹は、長老たちの前で彼に近づいて、彼の靴をその足から脱がせ、その顔に唾を吐き、彼に答えて、「自分の兄弟の家を興さない者はこのようにされる」と言うべきである。
25:10 彼はイスラエルの間で、「靴を脱がされた者の家」と呼ばれるであろう。

ここに記されている事柄は、日本における「イエ」の思想に通じる部分があると言えるのではないでしょうか。つまり、個人よりもイエの存続が重要であり、「~家」が絶えないことが最優先されるということ。
しかし、多くの日本人がこのような思想に違和感を感じ始めているのも事実だろうと思うのです。
よく、アメリカの個人主義が入り込んだために日本古来の伝統が損なわれているかのような言われ方をすることもありますが、決してそうではなく、本当に大切なものが何であるかということを考える人が増えているということなのではないでしょうか。
もちろん、家族や周囲のことを何も考えず、単なる自己中心的な個人主義は困りますが、個人個人の個性、人格、存在、それらが一人一人尊重されることは尊ばれるべきことであると言えるでしょう。

マタイ22:24 「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
22:25 さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。
22:26 次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。
22:27 最後にその女も死にました。
22:28 すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」
22:29 イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。
22:30 復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
22:31 死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。
22:32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」

人の名前が覚えられ、子々孫々に受け継がれていくことは、その人個人の存在が失われないことのように捉えられがちです。
しかし、それを人間の努力(律法)によって果たしていくことは、きわめて困難なことです。しかし、神が用意された御救い(福音)によって成し遂げられる永遠の命の約束は、「~家」のような十把一絡げのような仕方ではなく、私たち一人一人を永遠に存続させてくださるものであると言えるのです。
多くの日本の方々に、この真理に目が開かれて行って欲しいと願うものです。