申命記25:1 二人の間に争いが生じ、彼らが法廷に出頭するならば、正しい者を無罪とし、悪い者を有罪とする判決が下されねばならない。
25:2 もし有罪の者が鞭打ちの刑に定められる場合、裁判人は彼をうつ伏せにし、自分の前で罪状に応じた数だけ打たせねばならない。
25:3 四十回までは打ってもよいが、それ以上はいけない。それ以上鞭打たれて、同胞があなたの前で卑しめられないためである。
25:4 脱穀している牛に口籠を掛けてはならない。
熱心なユダヤ教の家庭に育ったパウロは、旧約聖書の御言葉に熟知しており、誰よりも律法の教えが身についているような人物でした。
そんなパウロが、このような御言葉に触れていることは興味深いことです。
2コリント11:22 彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそうです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。
11:23 キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。
11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。
11:25 鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。
11:26 しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、
11:27 苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。
1コリント9:9 モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。神が心にかけておられるのは、牛のことですか。
1テモテ5:18 聖書には、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と、また「働く者が報酬を受けるのは当然である」と書かれています。
いずれの個所も、イエス・キリストの証人として宣教の生涯を続けていたパウロに対し、厳しい迫害が加えられたり、伝道者として持つことの出来るはずの権利を剥奪されたりといったこと対し、聖書には、いかなる人間であっても人道的配慮がなされるべきであるし、ましてや、福音を宣べ伝える者に対する生活の保証や、尊敬の念が保たれるべきであるということを教えていると言えるのでしょう。
神はいかなる人間にも愛をもって、その命が尊ばれるべきであると願っておられるのです。その命を創られたお方だから。