ルカ21:20 「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。
21:21 そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。
21:22 書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。
21:23 それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。
21:24 人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。」
先日、ある本を図書館で読んでいて、興味深いことが書かれていて、いろいろなことを考えさせられた。
かつて日本は、中国から漢字をはじめとする様々な文化を取り入れ、産業業革命以降は、発祥地であるイギリスから近代化を取り入れてきた。
しかし、戦後は、戦勝国アメリカに追いつき、追い越すことを求め、アメリカ的市場社会を取り入れてきたことによって、歴史や伝統といったものを捨て去ることが良いことであるかのようにふるまってきたのでは、というのである。
もちろん、たまたまそういう時代に、アメリカの文化を取り入れていったというだけなのかもしれないが、戦後、様々な領域で日本がアメリカナイズされてきたであろうということは、必ずしも間違いではないかもしれない。
しかし、今日の聖書の箇所に記されている「異邦人の時代」という表現を見て、実は、アメリカナイズされてきた日本だと思っていたのが、もともと日本という国は、そういう国だったのではないのだろうかと思えてきた。オリジナルの欠如、人まね物まね、出る杭は打たれ、他人様と同じ生活をする。市場原理と世間による支配の中で、自分にとって何が本当に大切なものであるのか考えず、人がやっているからというような基準で物事を考え、行動してきたのではないだろうか。
「多くの人が欲するものが良い」と考えるのが市場の原理といえば聞こえは良いが、結局は欲望をあおり、本当に必要でないものまでも、あたかも必要なもののように訴え、理性を麻痺させられてしまっているのでは。それが「異邦人の時代」の意図する事柄のように思えてくる。
でも、いつかは必ずその時代の終わりが来る。本当に必要なものが何であるか、真剣に考え、人まねではない、本当の幸いを見極めなければならない日がやって来るのだ。
本当の幸いとは、大勢の人が集まる都にはなく、身重の女性や乳飲み子を抱えた女性が安心して暮らせるようなところにあるのかもしれない。
今日一日くらいは、田舎に暮らす特権を感謝しようと思う。