1テモテ3:14 わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。
3:15 行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。
3:16 信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、キリストは肉において現れ、“霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。
この箇所には、パウロがこの手紙をテモテに書き送った理由が記されていて、もうまもなく、テモテのいるエペソに行こうとしているものの、仮に遅れた場合に備えて、神の家である教会において、どのように生活すべきかということについて、あらかじめ伝えておこうとしたものであることが伺えます。
しかし、この箇所の表現には、非常に興味深い事柄が記されており、通常「真理」という言葉が用いられる場合、神の家である教会の柱であり、土台であるはずのイエス・キリストによって明らかにされた救いの約束を言い表す場合がほとんどだと思うのですが、ここでは、イエス・キリストによって現された救いの約束が真理であると述べられてはいるものの、その真理の柱であり、土台である教会と、教会自体がその真理を支える支柱のような表現で語られていることです。
私は、最初この箇所を読んだとき、「逆ではないか」と思いました。
イエス・キリストによって明らかにされた真理こそ、神の家である教会の柱であり、土台なのではないのかと。
いのちのことば社「新聖書講解シリーズ9」によると、
また「真理」とはキリスト教信仰を全体の正しい教えと真実のことであり、その中核に位置するのは主イエス・キリストご自身である。教会はこの真理の上に建てられるものなのだから、この真理の土台が「教会である」と言うのは逆ではないだろうか。こうした疑問点を解決するためには、まず「柱」と「土台」について考えなければならない。これらの用語が、あくまでも「真理」を説明する比喩的表現として用いられているからである。柱は、建物の重要な「支え」であると同時に、場所によっては一種の美的効果も兼ねる。日本式家屋の「床柱」などは後者の目的が強いため、特別な用材が用いられる。またある注解者たちには、パウロのこの表現は、エペソにあった異教のアルテミス神殿の柱と土台を念頭に置いた表現と見ている。その場合の柱は、確かに支えの役目をするが、それ以上に「外観」の方が重要である。それは土台についても同様である。このようなことを念頭に置いて、この世界との関係において「真理の柱また土台」としての地上の教会を見るとき、教会はキリスト教真理の見せ場(つまりあかしの場)であり、その真理を崩されないように守るところでもある。これはきわめて重要な事実である。
と解説されています。
なるほどなあと思います。パウロは、教会が神の家であり、地上における神の救いの約束を証する務めを担わされている、唯一の真理の柱、また土台であるということを示すためにこのように記しているのでしょう。
確かに、テモテへの手紙は、地上における教会の指導者として、テモテに対する実践的な指導の言葉が最初から綴られていて、そう考えるときに、このパウロの言葉は納得のいくものであると言えます。
キリストの教会は、地上で唯一、イエス・キリストの真理を証することのできる場であり、教会こそ、真理の柱、土台、宣教の働きのために建てられた、聖なる神の家なのです。
この重大な事実を前に、畏れと信頼を持って、神の真理を宣べ伝える働きに、この日も携わらせていただけますように。