主なる神 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

日時:2006年10月22日
聖書箇所:出エジプト5~10章

出エジプト記5~10章には、イスラエルの民をエジプトの奴隷から解放するために、主なる神様がモーセを遣わして様々な災いを下された時のことが記されています。
このことによって、最初はかたくなであったエジプトの王ファラオも、ついに我慢の限界を超え、イスラエルを解放することになります。
このとき、主なる神様がモーセに告げられた言葉は、非常に興味深いものであると言えます。

出エジプト6:1 主はモーセに言われた。「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる。」
6:2 神はモーセに仰せになった。「わたしは主である。
6:3 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった。
6:4 わたしはまた、彼らと契約を立て、彼らが寄留していた寄留地であるカナンの土地を与えると約束した。
6:5 わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした。
6:6 それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。
6:7 そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちをエジプトの重労働の下から導き出すことを知る。
6:8 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を上げて誓った土地にあなたたちを導き入れ、その地をあなたたちの所有として与える。わたしは主である。」

主なる神様は、もともと、イスラエルの先祖たちには、この天地を創造された「神」としてご自分をお示しになられ、天地万物の所有者であり、支配者であられる「神」としての性質を明確に言い表していたと言えるのですが、モーセを遣わしてエジプトの奴隷から解放されるときには、はじめて「主」という言葉を用い、奴隷から贖いだした主、エジプトの王ファラオに代わって民を所有し、支配されるのは、この「主」なる神となられるということを示しておられるのです。
実は、このことは、私たちが神様を知り、神様を信じて生きるようになるためには、たいへん重要な要素であると言えます。
というのも、「神」としての存在は、おおむね、多くの人の心の中にも見られる信仰心によって受け止めることのできるものであると思うのですが、これが「主」となると話は別です。つまり、私を贖い、私を救い出して下さったお方、「何でも私の願いを聞いてくれる神」とか「私のためにいろんな恵みを満たして下さる神」といった、普遍的な存在を超えて、極めて個人的な関係の深い、まさに、「僕と主人」の関係にある、しかも、「奴隷であったものを買い取って救って下さったご主人」という関係を言い表すものとして、この「主」という言葉が用いられているのです。
もちろん、今の時代、奴隷という概念自体、少々理解しにくい言葉なのかもしれませんが、この世の奴隷、富や快楽の奴隷、地位や名声、あらゆる誘惑の虜となっている現代の日本人にとって、このことは、大変重要なことを私たちに教えていることと思います。
単なる「神」ではない、「主なる神」。
このことを知らしめるために、主なる神様は、口下手なモーセを用い、数々の奇跡を用いて、ご自分が「主」であることをお示しになられたということを覚えたいものです。

わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかには神はいない。
イザヤ45章5節