詩篇73篇 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

詩篇73:1 賛歌。アサフの詩。神はイスラエルに対して 心の清い人に対して、恵み深い。
73:2 それなのにわたしは、あやうく足を滑らせ 一歩一歩を踏み誤りそうになっていた。
73:3 神に逆らう者の安泰を見て わたしは驕る者をうらやんだ。
73:4 死ぬまで彼らは苦しみを知らず からだも肥えている。
73:5 だれにもある労苦すら彼らにはない。だれもがかかる病も彼らには触れない。
73:6 傲慢は首飾りとなり 不法は衣となって彼らを包む。
73:7 目は脂肪の中から見まわし 心には悪だくみが溢れる。
73:8 彼らは侮り、災いをもたらそうと定め 高く構え、暴力を振るおうと定める。
73:9 口を天に置き 舌は地を行く。
73:10 (民がここに戻っても 水を見つけることはできないであろう。)
73:11 そして彼らは言う。「神が何を知っていようか。いと高き神にどのような知識があろうか。」
73:12 見よ、これが神に逆らう者。とこしえに安穏で、財をなしていく。
73:13 わたしは心を清く保ち 手を洗って潔白を示したが、むなしかった。
73:14 日ごと、わたしは病に打たれ 朝ごとに懲らしめを受ける。
73:15 「彼らのように語ろう」と望んだなら 見よ、あなたの子らの代を 裏切ることになっていたであろう。
73:16 わたしの目に労苦と映ることの意味を 知りたいと思い計り
73:17 ついに、わたしは神の聖所を訪れ 彼らの行く末を見分けた
73:18 あなたが滑りやすい道を彼らに対して備え 彼らを迷いに落とされるのを
73:19 彼らを一瞬のうちに荒廃に落とし 災難によって滅ぼし尽くされるのを
73:20 わが主よ、あなたが目覚め 眠りから覚めた人が夢を侮るように 彼らの偶像を侮られるのを。

この詩篇の作者は、主なる神様が慈しみ深いお方であり、つねに恵みで満たしてくださるお方であるということを「信じて」いました。
「信じて」いたというのは、現実には、生活も苦しく、病や試練に見舞われることが多かったからなのでしょう。
そして、つい、何もかもが上手く行っているように「見える」人をうらやんでしまうのです。
「見える」と記したのは、それが果たして本当に上手く行っているかどうかは、後になってみないとわからないからなのです。
ルカ福音書16章19節以下には、主イエス様が、金持ちとラザロという貧乏人の二人のことをたとえの中で語られていますが、金持ちはやがて炎の中に、しかし、生前、病と貧困の中で苦しみ続けたラザロがアブラハムのふところで安らぐ様子が紹介されており、このような御言葉を読むと、確かに、この詩篇に語られているような「わたしの目に苦労と映ることの意味を知りたいと思い計り、ついに、わたしは神の聖所を訪れ、彼らの行く末を見た」といった事を思わされるのです。
試練や災いにあったことがきっかけで、教会に足を運び、クリスチャンになられた人は大勢います。どうにかして助けを得たいと思われたことでしょうし、その助けが此の世には無いということを知ったからこそ、天の御国の祝福を求めたのかもしれません。そして、それは、神の聖所において、主が語られる御言葉の約束を信じることによってしか得られないものです。

「信じる」か「信じないか」によって、確かな救いの約束ともなり、そうでもなくなるような不安定な祝福ならば、誰も求めようとはしないのかもしれません。
しかし、忘れてはならないのは、神の御子であられるイエス・キリストなるお方が、私たちのために身代わりとなってご自分の命を投げ出して、十字架で死なれ、私たちの全ての罪の償いを成し遂げてくださったということは、確かに、この歴史の中で行われた事実であるということです。
それは、史実である以上、信じるか信じないかといった次元を超えて、受け入れるか受け入れないかという、言わば、事実に対するあなたの態度(行動、アクション)が問われているのだということなのです。
神様は必ずあなたを祝福してくださいます。あなたはこの「事実」を信じますか?