日時:2006年9月17日
聖書箇所:使徒17章1~12節
使徒17章には、パウロがテサロニケの町で伝道した時のことが記されています。
使徒17:1 パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに着いた。ここにはユダヤ人の会堂があった。
17:2 パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、
17:3 「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」と、また、「このメシアはわたしが伝えているイエスである」と説明し、論証した。
17:4 それで、彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスに従った。神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った。
17:5 しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前に引き出そうとして捜した。
17:6 しかし、二人が見つからなかったので、ヤソンと数人の兄弟を町の当局者たちのところへ引き立てて行って、大声で言った。「世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。
17:7 ヤソンは彼らをかくまっているのです。彼らは皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています。」
17:8 これを聞いた群衆と町の当局者たちは動揺した。
17:9 当局者たちは、ヤソンやほかの者たちから保証金を取ったうえで彼らを釈放した。
この町の人たちは、パウロの説教を聞き、ある者はパウロの言葉を信じましたが、ある者たちは強行に反発し、パウロたちに迫害を加えようとしました。
なぜこのように町を二分するほどの騒ぎになるのかと言うと、それほどパウロの語ったことが彼らにとって重要な事柄に関するものであり、聖書に記されているメシアの到来の約束は、誰もが待ち望んでいた希望の言葉であったからなのでしょう。
あの十字架にかけられたイエスというお方が、聖書にしるされているメシアなのか、ある者は、感情的に訴え、またある者は権威を振りかざし、パウロを迫害しようとしていたものもいたことでしょう。
これに比べ、ベレヤの町の人たちは冷静です。果たしてパウロが語っている事柄が本当に聖書の言葉に合致しているかどうか、自分たちで聖書を調べ、パウロの語っていることの真偽を見定めようとしているのです。
このような聖書の御言葉に対する姿勢は、非常に素晴らしいものと言えます。
とかく、クリスチャンの間でも、様々な事柄で意見が対立するときもあるのですが、そもそもクリスチャンの集まりとは何なのか、なぜ我々は集まっているのか、それらの根本には、聖書に記されている救いの約束があることを覚えなければなりません。
たとえば、なぜ、礼拝するのでしょう。そして、なぜ礼拝では、御言葉が語られ、賛美が歌われ、献金が捧げられたりするのでしょうか。
全ては聖書に記された救いの約束に基づくものであるはずです。
そう考えていくと、パウロが「聖書を引用して論じ合」ったという記述は、たいへん興味深い記述であると言えるでしょう。
何事も、聖書に尋ね、聖書に従う。そんな信仰者でありたいと願うものです。