エレミヤ49:12 主はこう言われる。「わたしの怒りの杯を、飲まなくてもよい者すら飲まされるのに、お前が罰を受けずに済むだろうか。そうはいかない。必ず罰せられ、必ず飲まねばならない。
主の選びの民イスラエルの神への反逆によって始まった神の裁きは、イスラエルの周辺諸国にも飛び火し、モアブ、アモン、エドムといったヨルダン川東岸の地域にも及んでいきます。
それは、誰も逃れることのできない裁きであり、全ての時代の、全ての民族にも及んでいくものであると言えるでしょう。
しかし、全ての民族に神の裁きがもたらされるということは、逆に言えば、全ての民族に救いも及んでいくと言うこと。
主イエス様の十字架の死による購いの御業、それによる救いの約束は、全ての人類に及んでいくものなのです。
ローマ5:12 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
5:13 律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。
5:14 しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
5:15 しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。
誰一人、神の裁きをまぬかれることのできる人はいません。
と同時に、誰一人として、神の御救いからもれてしまうようなことなど、神は望んではおられないのです。